本日7月17日は一人の偉大なレスラーの命日です。
「超獣」「キングコング」の異名を持つブルーザー・ブロディ(本名 フランク・ドナルド・グーディッシュ)は1988年7月17日に42歳の若さで亡くなりました。
その勇姿は今も鮮明に記憶に残っていますが、時計の針を22年前に戻してみましょう…。
当時、私はリスパック東京支店にて勤務していました。
夕方、事務所にいるとグループ会社のある先輩社員が近づいて来て、「ブロディが死んだらしいぞ。」と言ったのです。
しかしその時は目の前の仕事があまりにも忙しく、そしてその先輩は普段から悪い冗談ばかり言う人だったので本気で取り合わずスルーしてしまいました。
奇しくもその日は全日本プロレスの興行が後楽園ホールで開催される日で、観戦予定だった私は定時に仕事を終えると事務所を後にしました。
本気にはしていなかったものの、さっきの先輩の言葉は内心ずっと引っ掛かっていました。
悪い予感は次第に大きくなっていきますが、携帯電話もインターネットもない時代、簡単に情報を得る術がありません。
会場に行けば真偽がはっきりするはずなので自然と駅へ向かう足は速まりました。
「ブロディ 惨殺 全真相!」
駅の売店で東京スポーツの一面にでかでかと踊る見出しが目に入り、一瞬くらくらとめまいがしました。
ブルーザー・ブロディは88年7月16日(現地時間)、遠征先のプエルトリコの試合会場のシャワー室で、同じレスラー仲間でマッチメイカーでもあるホセ・ゴンザレスにナイフで刺され病院に運び込まれたものの翌17日、出血多量の為還らぬ人となりました。
半ば放心状態で到着した後楽園ホールでは急遽、追悼の10カウントのゴングが鳴らされました。
ブロディのライバルで親友でもあったスタン・ハンセンが試合に勝った後、ブロディの名前を連呼していたのが印象的です。
世界最強の男は誰か?ファンにとっては永遠のテーマですが80年代、ブロディの名を挙げるマニアは数多くいました。
チェーンを振り回し雄叫びをあげながら入場し、パワー、スタミナ、スピードと抜群の身体能力から繰り出される技は一発一発が破壊力満点で、ブロディ最強説に説得力を持たせました。
そして後ほど紹介するコメントでもわかるように、野獣のような風貌とリング上のラフファイトとは対照的な知的さも兼ね備えていました。
一説によるとプロレスの傍ら弁護士になる勉強もしていたと言い、リングでもただやみくもに暴れまわるだけでなく、計算しつくしたクレバーなレスリングを展開していました。
知性あふれるブロディのインタビュー記事を読むのは楽しみでしたし、当時プロレス中継の実況をしていた古館伊知郎アナは、彼を「インテリジェンス・モンスター」と形容しました。
ブロディは常に、自分こそが団体のトップであり興業の主役である事に拘り続けました。 自分の試合やファイトスタイルに干渉される事を何より嫌い、レスラー仲間やプロモーターからどんなに嫌われ孤立しても自己の信念を曲げなかったそうです。 この業界でプロモーターに反逆する事は仕事を失ってしまう自殺行為となります。ブロディがそれを貫く事ができたのは、プロレスラーとしてそれだけの商品価値があったからです。ファンがブロディを観たい以上、多くのプロモーターは少々のわがままには目を瞑ってブロディを使いました。
しかしその妥協なきストイックさが最終的にはプエルトリコでの非業の死に繋がったわけで、ブロディらしいとも言えますが何とも残念な事でした。
このブログのタイトルでもある、「孤高の天才」とはブロディにこそ相応しい呼び名かもしれません。
超獣伝説よ永遠に、最後に印象的なブロディ語録をお届けしましょう。
「孤高の天才」のメッセージをまた聞きたいものです。
「イノキの目にバーニング・スピリットを見た。」
「私は全日本プロレスと新日本プロレスのテレビの視聴率争いに大変興味を持っている。 いや、責任を感じていると言っていいぐらいだ。
全日本と新日本、ババとイノキの確執も究極には日本テレビとテレビ朝日の争いなんだ。」
「私はファンにサインをするのが嫌いだ。 ブルーザー・ブロディに興味があるなら入場券を買って会場に来てくれ。 必ず払ったお金に見合った満足感を与える事をお約束しよう。」
「私は商売柄あらゆる国に行く機会があるが、公園で母親と子供が遊んでいる様子を見たらその国の文化がわかるんだ。」