「鉄の爪」ことアイアンクロー…オールドファンには懐かしい往年の名レスラー、フリッツ・フォン・エリック*(故人)の必殺技です。
私もそうですが子供の頃、プロレスごっこでアイアンクローの真似をした人は多いでしょうね〜。
そう言えば先月、とあるセミナーに参加した時の事、二人一組となってディスカッションをする場面があり私のお相手は年配の異業種の会社役員さんだったのですが、何故かプロレスの話になってしまいました(笑)。
そしてその人が唐突に「フリッツ・フォン・エリックのアイアンクローは凄かったですね〜。」とおっしゃったのです。
私はちょうど今回のブログを書き始めた時期だったのでびっくりしましたが、いかに鉄の爪のインパクトが強かったかを実感しました。
アイアンクローは手で相手の前頭部をわし掴みにする極めて単純な技ですが、エリックの右手の握力は一説によると120kgを超えたと言われ、リンゴを握り潰すぐらいは朝飯前、この手で捕まえた相手を血だるまにする様は本当に凄みがありました。
エリックが若い頃町を歩いていた時に暴漢と遭遇、取り押さえようと腕を掴んだら相手は骨折してしまい、その時に自分の握力の強さを思い知った事がアイアンクローの開発のきっかけだそうです。万年肩凝り症の私としては鉄の爪で肩を揉んでもらいたいものです(笑)。
子供の頃の私が強烈に印象に残っているのはエリックと若き日のジャンボ鶴田との一戦で、スピードで相手を霍乱し一本目を速攻で先制した鶴田が(当時は三本勝負が主流)二本目にはとうとう鉄の爪に捕獲され大流血!あの恐怖と戦慄は忘れられません。
文句なしに超一流のプロレスラーだったエリックはプロモーター、事業家としても成功しました。
地元であるテキサス州ダラス地区での興行権を買い、鉄の爪王国と呼ばれる一大プロレス・マーケットを築き上げ、その最盛期には「ダラスのプロレスラーは、エリックの経営するホテルに部屋を与えられ、エリックのレストランで食事をし、エリックの銀行の小切手でファイトマネーが支払われる。」と言われたほどです。
そんなエリックは私生活においては6人の息子に恵まれました。
そして息子たちを自分と同じようにプロレスラーにして世界チャンピオンに育てあげる事をライフワークとしていました。
しかしその夢は、1959年、長男のジャック・アドキッセン・ジュニアが事故死してしまう事により早くも狂い始めます。
雨の日に外で遊んでいて誤って高圧線に触れてしまった為の感電死(享年6歳)という不幸なアクシデントでしたが、後で思えばそれはさらなる悲劇のプロローグでしかなかったのです…。
長男の死はあったものの、次男ケビン以下の5人の兄弟たちはすくすくと育ち、フリッツの期待通りにプロレスラーへの道を歩み始めます。
82年6月、51歳となったフリッツは地元ダラスのスタジアムで華々しく引退試合を行いました。
偉大なる父をねぎらうべく試合後には5人の息子たちもリングに上がりました。
この時、次男ケビン、三男デビッド、四男ケリーは既にプロレスラーとしてデビューしており五男マイク、六男クリスはまだ学生でしたが5人の息子に囲まれたフリッツはマイクを掴んで「俺は今日で現役を引退するが、ここにいる息子を全員、世界王者にしてみせる!」と堂々と宣言してみせました。
父親譲りの素質と才能に幼い頃からの英才教育、さらにフリッツの業界内における政治力が加わればそれはあながち夢物語ではないと誰もが思っていました。
エリック一家には明るい未来が待ち受けているはずだったのです。
しかしここから悲劇は本格的に幕を切って落としました。
84年2月、全日本プロレスのシリーズに参加する為来日した三男デビッド・フォン・エリックが東京・品川のホテルの一室で急死したのです(享年25歳)。
この事件は一般紙やテレビのニュースでも流れ、死因は内臓疾患と発表されましたが実際には急性ドラッグ中毒によるショック死でした。
兄弟の中でも体格、素質に最も恵まれ世界王者の最有力候補と言われたデビッドの死はエリック一家に暗い陰を落としました。
5月に地元ダラスで行われる予定だったデビッドの世界王座挑戦は、デビッドの追悼興行に急遽変更され、デビッドに代わって四男のケリー・フォン・エリックに挑戦権が回ってきました。
ここで天国のデビッドに届けとばかりに奮起したケリーは、見事に王座を奪取する大仕事をやってのけました。
結局は短命王者に終わったものの、とうとうエリック家は一度は悲願を果たしたのです。
これで誰もがエリック家を覆う暗い陰は消え去ったと思いましたが、幸運は長くは続きませんでした。
2年後の86年6月、ケリーはオートバイ事故を起こし全身打撲と複雑骨折の重傷を負って右足を切断、義足となってしまいます。
一時は再起不能と思われたケリーですが翌年の10月に1年4ヶ月ぶりに義足のまま(この事実は世間には伏せられていた)奇跡的にリングにカムバックを遂げます。
しかし、失った右足の傷口の痛みはこの後も長く彼を苦しめ続ける事になります。
87年4月にはまたしても悲劇が起こりました。
五男であるマイク・フォン・エリックがダラス郊外のルイビル湖畔で薬物自殺を遂げたのです。(享年23歳)
83年にプロレス・デビューしたマイクは、85年の夏の中近東遠征で左肩を負傷、バクテリアが感染した毒素性症候群に悩まされていました。
主治医への暴力沙汰を起こしこの件が裁判になっている際中、酒酔い運転で検問に引っかかりマリファナを所持していた事から現行犯逮捕、保釈中に行方不明となって捜索願いが出された直後の悲報でした。
あまりにも次々と起こる不幸の連続にこの頃から多くの人がエリック家の事を「呪われた一家」などと呼ぶようになりました。
呪いの連鎖は収まらず91年9月には末っ子、つまり六男であるクリス・フォン・エリックまでがピストル自殺してしまいます(享年21歳)。
クリスは前年にプロレス入りしたばかりでしたが身長165cmと他の兄弟と比べると小柄なうえ喘息の持病があり、ステロイドを常用していたと言う説もありました。
偉大なるエリックという名前のプレッシャーに耐え切れなくなり様々な苦悩の末に死を選んだのだとしたらあまりにもやりきれません。
* フリッツ・フォン・エリック |
1929年テキサス州出身、本名はジャック・アドキッセン。53年にデビュー、ナチスの亡霊のギミックでヒールとして売り出し63年にはAWA世界ヘビー級王者となる。66年に初来日、ジャイアント馬場の好敵手となる。65年からはダラスにてプロモート業も開始、75年にはNWA会長も務める。必殺技はあまりにも有名なアイアンクロー、82年に現役を引退、97年肺がんにて死去(享年68歳)。ニックネームは「鉄の爪」 |
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(次回へつづく) |
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