包装資材の専門商社 タミヤ

ホーム タミヤのチカラ 商品ラインナップ 環境保全活動 会社情報 お問い合わせ

会社情報

Home > 会社情報 > 社長の経営日誌
会社概要
主要販売・仕入先
社長の日誌

社長の経営日誌

孤高の天才 社長の経営日誌社長の経営日誌 田宮社長が好き勝手に織りなす独白です

FILE No.374

2014.5.17
「 ブラジル・ドバイ最新流通視察(2) 」

(前回からの続き)

4月19日土曜日、いよいよ地球の裏側、日本から約1万8千km離れたブラジルへの出発の日がやって来ました。
21時に関西空港と遅めの集合、そう、いつもは成田発のこのツアー、嬉しい事に今回は関空発着だったのです。成田からの便が早いうちに満席になった為、急遽変更されたのですが(パンフレットには成田発着と記載されている)大阪の私にとっては大変嬉しい事でした。私以外の参加者は全員東京方面の方で誠にお気の毒でしたが、いつもの成田集合の時は私が苦労してるんですから!
集合時間にはかなり早い20時に空港着、羽田から乗り継いで来られた参加メンバーと合流しました。
結局、今回の参加者は小売業協会の近江部長と旅行社添乗員を含め10名、昨年12月の事を思えばよく集まったと思います。

 クリックで拡大
 エミレーツに乗って
いよいよ地球の裏側へ!

23時30分、初めて搭乗するドバイのエミレーツ航空機にて片道27時間という人生最大の長旅が始まりました。
厚かましくも私めは今回もビジネス席に搭乗、本当に包材屋の分際で贅沢してすみません、何しろ体力に自信がないものですから(笑)。
とにかくいかに眠るかが鍵と思っていましたので、離陸と同時に睡眠薬を飲んで速攻で横になりました。後で聞いたらほどなくして食事が運ばれてきたそうですがぐっすり寝ていたので全然気がつきませんでした。ダイエット中の身としては寝る前の食事は厳禁につき良かったです。

10時間半後、飛行機は乗り換え地点であるドバイに到着、時刻はドバイ時間で朝の5時過ぎ、時差は5時間遅れなので日本は午前10時の計算です。

 クリックで拡大
 ブラジルへは27時間の
長旅…

ラウンジで約2時間待って今度は7時20分発のエミレーツ機へ、ここからブラジルへはさらに14時間20分のロングフライトです。
寝るのにも飽きた?私はヘッドホンで音楽を聴いて時間を潰していましたが、70〜80年代のヒット曲集(木綿のハンカチーフもあり!)やアニメソングもあり、大喜びでした。

現地時間14時40分、遂にブラジルのリオデジャネイロに到着、一日以上という長い時間をかけて遂に遂に、アントニオ猪木第二の故郷、ブラジルの土を踏む事になったのです!

1957年(昭和32年)2月3日。
13歳の猪木寛至(かんじ)少年と10人の大家族を乗せたサントス丸は、横浜大三桟橋からブラジルに向けて出航しました。
船に乗っていた移民の数は約500人、当時の移民というのは地方の農業従事者が海外に出て行く場合が殆どでしたが、この時だけは都会の住民を対象にしたテスト・ケースで猪木家はそれに応募したのです。
猪木さんはまだ中学生でしたが二年で義務教育を修了し、船の上で14歳の誕生日を迎えました。

 クリックで拡大
 アントニオ猪木自伝より

一ヶ月半もの長い航海、船がパナマ運河に差しかかった時の事、運河の中で船がエンジンを切り、当時は鉄道だった牽引車に引っ張られている光景を見ながら、尊敬する祖父が猪木さんにこんな話をしてくれました。
40年以上も前、祖父が米相場で当てて景気が良かった頃、この鉄道の権利を買わないかという話が舞い込んだと言うのです。結局海のものとも山のものともわからぬ遠い場所での投資話を祖父は断り、その権利はあるドイツ人が手に入れ大儲けしたそうです。
「もしあの時この鉄道を買っていたら俺は世界一の金持ちになっていたんだ。」
祖父の言葉に14歳の猪木さんは運命の不思議さと残酷さを感じずにはいられませんでした。今は移民としてここを通過している祖父が、もしかしたらこの鉄道の持ち主になっていたかもしれない…ひょっとしたらこのパナマ運河と鉄道を一目見たくて祖父はブラジル行きを決意したのではないか…。
「心の貧乏人には決してなるな。」「例え乞食になっても世界一の乞食になれ。」
尊敬する祖父の口癖は猪木さんの人生観に多大な影響を与えました。
永遠の夢追い人と言える猪木さんのロマンティックな生き様は祖父の教えそのものなのです。
そんな祖父は航海中に急死、猪木さんが本当の意味で涙を流したのはその時が最初でした。
ベネズエラ沖を進む船上での葬儀、棺が海に沈んでいく光景は映画のワンシーンのように今でも猪木さんの脳裏に焼きついているそうです。

祖父の死を無駄にしない為にもブラジルで成功する、悲愴な決意を固めようやく到着した地球の裏側、そこで猪木一家を待っていたのは厳しい現実でした。
サンパウロから夜汽車で800kmの移動を経て働く場として連れて来られた広大なコーヒー園、あてがわれたのは電気も水道も、そしてトイレすらない家でした。

 クリックで拡大
 ブラジルでの厳しい
生活が強靭な体力と
精神力を養った…

朝5時にラッパの音で叩き起され、夕方までひたすら木の枝に生ったコーヒー豆をしごく作業、ささくれだった枝で用意した軍手はすぐにボロボロになり、後は仕方なく素手でしごくしかなく手の皮は剥け血まみれになりました。
一日三回、腰にピストルと鞭を下げた作業監督が見回りに来る中で丸一日、全く逃げ場の無い過酷な奴隷労働、日本でアルバイトの経験すらなかった14歳の猪木少年は全てを受け入れるしかなかったのです。

契約期間である1年半もの間、奴隷のような生活に耐えた猪木一家は土地を借りてようやく独立、ここで落花生を作って成功を収めました。
生活に少し余裕が持てるようになった事により猪木さんは日本で夢中だった砲丸投げを再開、やがては我流で槍投げや円盤投げの練習を始め、全ブラジル陸上競技会に出場して円盤投げの新記録を樹立し、優勝する快挙を成し遂げたのです。

 クリックで拡大
 オリンピック出場を
目指していた16歳の頃

やがて農業に見切りをつけた猪木一家は大都会サンパウロに家を買い、猪木さんは青果市場で働き始めました。
仕事をしながら学校にも通い陸上競技の練習を続ける…農業時代以上のハードな生活でしたが、猪木さんにはブラジル代表としてオリンピックへ出場するという大きな夢がありました。
そんな猪木さんに運命の出会いが待っていました。日本から力道山がブラジルまで遠征して来たのです。
ブラジルにやって来た力道山は、新聞記者から陸上競技の大会で優勝した日本人の少年の話を聞かされ興味を示し、知人で現地の日本人有力者である児玉氏にその少年を探して欲しいと依頼しました。
何という偶然、その児玉氏こそ猪木さんが働く市場の組合長だったのです。
ところがこの児玉氏ものんびりした人でまさか力道山が探しているのが自分の市場で働いている少年だという事に全く気がついていませんでした。
市場にやってきた児玉さん、周りのスタッフに「リキさんが陸上競技で優勝した猪木寛至っていう少年に会いたいって言ってるんだけど、連絡先がわからなくて困ってるんだよ。誰か何処にいるか知らないか?」
皆当然大爆笑、「何言ってるんですか、そこにいるじゃないですか」と指さした先には、キャベツの入った箱を運ぶ猪木さんの姿が(笑)。
興奮し喜び勇んだ児玉さんでしたが話を聞いた猪木さん自身もびっくりでした。あの力道山が自分を捜していたとは! 半信半疑のまま猪木さんは力道山が宿泊しているホテルに連れていかれたのです。

(次回へつづく)
<過去の日記>
サイトマップご利用にあたってプライバシーポリシー

(c) 2007 TAMIYA.Ltd