このブログの更新日である1月23日は、世界のジャイアント馬場の誕生日です。
1938年(昭和13年)生まれの馬場さんはご存命ならば今年78歳、まさかリングに上がって16文キックを繰り出してはいなかったでしょうが(マスカラスやファンクスの例があるのでわからない!?)恒例のチャンピオンベルトレプリカ紹介、今回は馬場さんを偲んで代名詞だったPWFヘビー級王座の登場です。
1972年10月、全日本プロレスを旗揚げしたジャイアント馬場は翌73年3月、ハワイのホノルルに本部を置くPWF(Pacific Wrestling Federation=太平洋沿岸レスリング連盟の略)の設立を発表しました。
初代会長にはハワイ在住の元レスラーでプロモーターのロード・ブレアースが就任し、PWFヘビー級王座が創設されましたが、PWFはタイトルを管理する組織でプロレス団体のように興行を行うわけではなく、はっきり言って実体はありません。
昔はテレビ中継を観ていると「ハワイのPWF本部は挑戦者に○○を指名!」「全日本プロレス代表のジャイアント馬場はハワイのPWF本部と掛け合ってタイトルマッチの開催の許可を…」などと連呼していたので、本当にハワイのホノルルにはPWFの本部があると信じて将来ハワイに行く機会があれば絶対PWF本部を見学に行こうと思っていましたよ(ホノルルにあったロード・ブレアースの自宅、あるいは馬場さんの別荘が本部だったのか!? 笑)。
高校時代、友人が私に「馬場って何かベルト持ってるんか?」と聞いてきたので「うん、PWFヘビー級。」と教えてやると「何やそれ?どうせローカルちゃうんか。」と言うので「バカ野郎!チャンピオンベルトの価値は王者がどんな相手とどんな防衛戦をやったかで決まるものなんだよ!」と諭してやりました(笑)。
当初は「PWF世界ヘビー級王座」と言う名称だったものがNWAの勧告により世界の冠を外し(猪木さんのNWFと同じ)「PWFヘビー級王座」となったものの、馬場さんは王者としての通算在位期間中、実に59回もの防衛を果たし特に初代王者の時代には38回もの連続防衛に成功しており、これは現在でも日本のプロレス界において史上最多の連続防衛記録となっています。
挑戦者の顔ぶれはブッチャー、レイス、ハンセン、ブリスコ、ロビンソン、ブロディ、シン、サンマルチノ、大木金太郎、R・木村、マクダニエル、シーク、キニスキー、ドリー、 モラレス、フリッツ、オコーナー、マードック、ゴディ…etcと世界に名だたる強豪ばかり、まさに世界王座に匹敵する価値があるタイトルと言えるでしょう。
さて、昨年末にこれまであまり取り上げられる機会の無かった、読売巨人軍時代の馬場さんを追ったノンフィクション作品、「巨人軍の巨人 馬場正平」を読破しました。
こう書くと「えっ!?ジャイアント馬場って巨人軍にいたの!?」と驚く人も多いかもしれませんが、そんなの日本国民の常識ですよ(笑)!
新潟県三条市に生まれた馬場正平は子供の頃からスポーツは何でも好きな少年でしたが、最も熱中したのは野球でした。
11歳の時に市内にできた少年野球チームに入ってエースを務め、中学生になってからも野球部で活躍、中越の野球大会で優勝する実績を誇り、高校へと進学しました。
この頃の馬場さんはとにかく野球に夢中、念願叶って野球部がある高校に合格してこれからは軟式ではなくプロと同じ硬式球で野球が続けられると大喜びしたのも束の間、馬場さんは野球部に入部出来ませんでした。何故? 足に合うスパイクが見つからなかったからです!
小学校の高学年の頃に既に152cm、中学生の頃には176cm、そして高校生になる頃には190cmにも達していた馬場さんの身長、それに伴って足も13文(31.2cm)のジャイアントサイズとなっており普段の履物にも困る有様で、スパイクが無いばかりに泣く泣く野球を断念した馬場さんは美術部に入部、本当は野球がしたいという気持ちを無理矢理封印して絵を描く事に没頭していました。
そんな馬場さんの気持ちを察して、野球部の部長が靴屋に特注して特大のスパイクを作ってくれ、2年生になる頃馬場さんは夢にまで見た野球部にようやく入部を果たせたのです。
すぐに頭角を現し、夏の甲子園出場の夢は叶わなかったものの、巨漢のエースの評判を聞きつけた読売巨人軍のスカウトがやって来ました。
提示された条件は支度金20万円、初任給は1万2千円、大学卒の初任給が5700円の時代の話でしたが、20万円などと言う大金は見たこともなかった馬場さん、子供の頃からの憧れの巨人軍が大金を用意してスカウトに来たのですからまさに天にも昇るような気持ちだった事でしょう。
かくして馬場さんは高校を中退し、プロ野球の世界に身を投じる事を決意、17歳になる直前の1955年(昭和30年)1月15日に正式入団を果たしました。
球団の方針によりまずは二軍からのスタートとなったものの少しずつ成績が上がりつつあった二年目の冬、大きな試練が訪れました。
視力が急速に落ちて行き、わずか5m先すら見えなくなったのです。
慌てて訪れた警察病院では非常な宣告を受けました。
「脳下垂体が視神経を圧迫しておりこのままでは失明する。手術しても完治の可能性は1%ぐらい。」挙句には「あんた、按摩(あんま)になりなさい。」 夢と希望に満ちた未来を信じていた18歳の馬場さんの味わった挫折感はどんなに大きかった事でしょう…。
紹介を受けて藁にもすがる思いで脳外科の権威と言われる先生の元を訪ね手術をを勧められたものの、当時は開頭手術=「半ば死ぬ事」を意味していた時代、馬場さんは死を覚悟して手術を決意しました。
1956年(昭和31年)12月22日、大手術は奇跡的に成功しました。しかも馬場さんはわずか9日後の大晦日には早くも退院、翌年のキャンプにも問題なく参加すると言う驚異的な回復力を見せ、皆を驚かせたのです。完治の可能性が1%しかないと言われる開頭手術を受けた人がその後野球、プロレスと言う激しいスポーツを続ける事が出来た事は専門家ですら信じられないと言うそうです。
そして無事戦列に戻れた馬場さんはこの年、とうとう三試合だけ一軍のマウンドに上がりました。
10月には一世一代の大舞台である先発マウンドを経験、1回に1点を失ったものの以後5回までは無失点の好投、5回でマウンドを降りて敗戦投手となったものの、この試合は馬場さんの野球人生のハイライトでした。
1959年(昭和34年)に入団した王貞治選手は当時を述して
「僕のような高校生ルーキーのバッティング練習につきあってくれるピッチャーなんてなかなかいないものですが、馬場さんは率先してマウンドに上がってくれたんですよ。
マウンドに立った馬場さんは本当に大きく見えて、球もまさに2階から投げ落とされる感じでした。」と語っています。
馬場投手と向き合った打者は異口同音に「2階から落ちてくる球」と言う表現を使いますが、これはまさに「侍ジャイアンツ」のハイジャンプ魔球(←知ってる?)の世界ですね(笑)。
この年の11月、5年間在籍した巨人軍から自由契約を通告された馬場さんは翌1960年(昭和35年)大洋ホエールズのキャンプにテスト生として参加しました。
入団は内定していたのですが、2月12日明石キャンプの休日、馬場さんの運命を変える事件が起こりました。
宿舎の風呂に浸かっていて立ち上がった時急に立ちくらみがして背後のガラス戸にもたれかかり、左肘がガラスを突き破る事故にあったのです。ガラスは大きな音をたてて割れ、左脇腹から左腕の内側に裂傷を負った馬場さんは緊急手術を受け35針を縫いました(私が学生の頃読んだ漫画「プロレススーパースター列伝」では石鹸を踏んで滑ってガラスに突っ込んだ事にされていました 苦笑)。
左肘の筋を切った為、左手の中指と薬指がくっついたままになりグローブに手を入れる事ができず、即戦力とならない為球団は不採用を決定、不慮の事故により馬場さんは野球と決別する事になったのです。
再び味わった大きな挫折…しかし運命に導かれるように以前から面識のあった力道山を訪ね、プロレスラーと言う天職を見つけ大成功したのですから「人間万事塞翁が馬」、馬場さんの強運ぶりがわかります。
結局は芽が出なかったプロ野球時代、当人には辛い不遇の時間かと思いきや、生前のインタビューで馬場さんは「巨人軍にいたと言うプライドだけは絶対に忘れない。」と言っていました。
「巨人軍の巨人」から「世界のジャイアント馬場」への華麗なる転身…その後の馬場さんに関してはちょうど一年前のブログ(FILE No.409「東洋の巨人」)を是非ご参照下さい。
|