年の瀬も押し詰まった12月26日、東京の杉並区高円寺にあるUWFスネークピットジャパンでのトークイベントに行って来ました。
同所には過去二回、新間寿さんがゲストの時に来ていますが今回は初めてプロレスラーの回への参加で、ゲストは昭和のファンには懐かしい「野生の虎」キム・ドクことタイガー戸口選手でした。
現在セミリタイア状態の戸口選手、正式に引退したわけではないのですが全く試合をしていない為プロレス会場に来る事も無いので、こういう場でしかお会いするチャンスはありません。戸口選手と言えば昔からそのビッグマウスぶりは超有名で、業界ではそれをドク・ガス(毒ガス)と言うそうです(笑)。
数年前に「Gスピリッツ」(辰巳出版)20、21号に掲載されたインタビューでもその猛毒は健在でしたが、今回はその記事をじっくり再読のうえイベントに参加しました。
戸口選手は日本名が戸口正徳、本名は表正徳、韓国人の父と日本人の母の間に生まれた在日韓国人2世です。
高校生の頃には柔道で活躍、大学だけで6校もスカウトに来るほどの実力だったものの、父親の知人であった韓国人プロレスラー大木金太郎の口利きで1967年日本プロレスに入門、新人時代には「神様」カール・ゴッチの「ゴッチ教室」で徹底的に鍛え上げられました。
当時の日本プロレスはジャイアント馬場、アントニオ猪木それぞれの派閥があり、やがては猪木派が新日本プロレス、馬場派が全日本プロレスと独立の道を歩むわけですが、入門の経緯から大木金太郎派と見られていた為どちらからも声がかからなかった戸口選手は日本プロレスが崩壊寸前の72年12月、アメリカに新天地を求めます。
最初に上がったロサンゼルスのリングで韓国人キャラのキム・ドクに変身、ロスを皮切りにオクラホマ、ミシシッピー、ルイジアナ、インディアナポリス、テキサス、そしてAWA地区を転戦、75年にはバーン・ガニアのAWA世界ヘビー級王座への挑戦を果たしました。団体の後ろ盾のない日本人選手がこれだけのチャンスを掴んだのは快挙と言って良いでしょう。
裸一貫で渡米し成功した戸口選手にとって日本は眼中になかったものの、師匠である大木金太郎の要請を断れずタッグを結成し77年全日本プロレスに逆上陸、日韓師弟コンビはジャイアント馬場、ジャンボ鶴田組から二度(76年10月、77年11月)もインタータッグ王座を奪う大暴れをやってのけました。
さらにシングルでも78年9月13日名古屋でジャンボ鶴田選手の保持していたUNヘビー級王座に挑戦、1-1からフルタイムとなりさらに5分間の延長戦も決着がつかずと王座奪取こそなりませんでしたが、計65分を戦い抜いたこの試合は戸口選手にとって生涯のベストバウト(最高試合)となったのです。
若き日の二人のライバル対決は全日本プロレスの黄金カードとなり、翌79年、戸口選手は全日本プロレスに正式入団、リングネームはそれまでのキム・ドクからタイガー戸口に改められました。
ファンからの一般公募によって決まったと言われていますが、応募作の中には「ビッグマウス戸口」、「シャラップ戸口」のように的を得たもの?(笑)や「たちつて戸口」などおちょくったものも多く、面倒になった馬場さんの鶴の一声で「タイガー戸口」に決まったそうです。
一説によると戸口選手が葛飾区の出身なのでフーテンの寅さんから取ったとも言われましたが、本人いわく「嘘だよそんなの。俺、「男はつらいよ」なんて観た事ないもん(笑)。
昔、韓国には沢山虎がいたじゃない?加藤清正が虎退治をした話も有名でしょ?そこからだよ。」(Gスピリッツのインタビューより)
タイガー戸口として馬場、鶴田に続く「第3の男」、それも限りなくNO.2に近いNO.3のポジションを得た戸口選手は、ある日鶴田選手とともに馬場さんに呼ばれ「俺は近々引退するからこれからの全日本プロレスはおまえたちに託す。」と言われました。
団体の頭脳とも言うべきブッカー、マッチメイカーの役割を戸口選手がやると言う構想もあったそうです。
しかし81年、大激震が起こりました。全日本プロレスと新日本プロレスの間で仁義なき選手の引き抜き合戦が勃発、戸口選手は新日本への電撃移籍をやってのけたのです。
戸口選手によれば新日本から声がかかったから全日本を辞めたわけではなくあくまで退団の方が先だったそうですが、これだけ将来を約束されていたのに何故?
戸口選手はそのあたりの真相も包み隠さず話してくれました。
「これ言っていいのかなあ?教えてあげようか(必ずこう前置きするのが戸口選手の口癖 笑)。 俺が全日本を辞めたのは馬場さんが俺に嘘をついたからだよ…。」
戸口選手はアメリカでグリーンカード(永住権)も取得しており、全日本入団後も家はアメリカにあったのですが、馬場さんは完全な日本への定着を望み家族を日本に連れて来る飛行機代を「俺が全て出す。」と約束したそうです。
戸口選手は奥さんを説得、日本移住の準備を始めましたがいざ土壇場になって馬場さんに飛行機代を頼むと「お前、勝手にやれ」(笑)
これに頭に来て辞表を提出したと言うのが真相で、質問コーナーの時私は思わず「そのへんはもう少し話し合いで何とかならなかったのでしょうか?」と聞いてしまいましたよ(場内爆笑)。
「馬場さんとは何度も話し合ったよ。でも馬場さんも意固地になるし結局どちらかが下がらなきゃ喧嘩になるから仕方がないじゃない。」
また、「俺は近いうちに辞める」と言っていた馬場さんの新調したばかりの16文のリングシューズを巡業用のバスの中で発見した事も退団への背中を押したそうです。
「言っている事と違うじゃないか、俺を馬鹿にしてるのかよ」(またしても場内爆笑)
ちょっとしたボタンの掛け違いから全日本を離脱、新日本のリングに戦場を求めた戸口選手ですが、新日本のスタイルはあまり水に合わなかったのか、全日本時代と比べると目立った活躍は出来ませんでした。
当時の新日本の使い方にも問題があったと言うのが私の印象で、折角全日本でジャンボ鶴田のライバルとして確固たる地位を築いていた戸口選手を獲得したにも関わらずそれを活かすマッチメイクを何故しなかったのか?機会があれば新間さんにどうしても質問したい私の長年の疑問の一つです。
「いつだったか新間さんと話したら、ちゃんと道理に合っているんだよな。
ヘビー級は猪木さん、ジュニアは藤波が柱で、俺は坂口さんと組ませてタッグ王者にするプランがあったそうだよ。でも俺は所詮外様だし生え抜きの連中がやっかむから白紙になったみたいだよ。」
「あの頃新日本は企業戦争で本気で全日本を潰す気だったんだ。あの時俺を活かす使い方をしていれば全日本にとどめを刺せたかもしれない。だから馬鹿ばっかりって言うんだよ(笑)。」
往年のビッグマウスも最初は寄る年波で大人しくなったのかと思っていましたが、トークも後半になるとエンジン全開で毒ガス大噴出、現代のプロレス界もめった斬りでした。
「論理学ができなきゃプロレスラーはできない。今のレスラーは馬鹿ばっかり、馬鹿じゃレスラーはできないんだよ。客を飽きさせたらもう観に来ない、面白くして帰してあげなきゃ誰が高い金払って来るんだよ。それをわかっている奴が何人もいないから今に日本のプロレスは駄目になるよ。街中で酔っぱらいが血を流して喧嘩しているのとレスリングで流血しているのを観ていてどっちが面白い?喧嘩の方がよほど面白いだろ?
自動車レースでもそう、誰が一位かなんてどうでも良くて事故で車が大破するのを観に行ってるんだ。それが人間の心理なんだよ。」
そして口だけではなく遂にはリングへの復帰宣言!?
「まあ、あと2年待ってください。2年経ったら俺、70歳になるからその時に引退試合をやるからさ(笑)。」
毎日ジムに行っての筋トレを欠かさないそうで現在の体重は何と全盛期より10kg以上重い137kg! 場内からは驚嘆の声が上がっていました。
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さて、そんな戸口選手とのサイン&撮影会、本来なら戸口選手が日本で唯一巻いたインタータッグ王座のレプリカを用意したいところでしたが残念ながらマイ・コレクションには無く、自他ともに認めるベストバウトの鶴田戦で懸かったUN王座を持参しました。
2015年は天龍選手、戸口選手(二人共元全日本のNO.3だ!)とUN王座が大活躍の年でした(笑)。
更にはジムにあるリング上で戸口選手から技をかけてもらっての記念撮影と言うサービスもあり、技は「かんぬきスープレックス」(勿論投げるポーズのみ)指定でしたが、私はあつかましくも鶴田戦で1本目のフィニッシュとなった「キウイ・ロール」をリクエスト、これは足をロックしてテリー・ファンクのローリングクレイドルのようにリング内を回転し相手をタップさせる今や使い手のいない幻の技です。
当然撮影では本当に回転はしませんが足を折りたたまれただけで「いててて!」とマットを叩いてタップする情けない私でした(笑)。
イベントが終わってもまだまだ喋り足りなさそうな戸口選手、その健在ぶりが嬉しかったです。 すっかり毒ガス中毒になった私、是非第二弾も実現してもらいまた毒ガスをたっぷり吸い込みたいものです。
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