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社長の経営日誌

孤高の天才 社長の経営日誌 田宮社長が好き勝手に織りなす独白です
 FILE No.482 2016.7.23

「 超獣メモリアル(3) 」

(前回からの続き)

ブロディ刺殺事件から13回忌に当たる2000年、現場に居合わせたダッチ・マンテルがインターネット上で手記を発表し、全米ファンの間で話題を呼びました。

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 週刊プロレス2000年8月29日号を発見

ダッチ・マンテルは日本のファンにはUWF旗揚げ戦(84年4月11日)で前田日明の相手を務めた選手として記憶に残っています。マンテルはブロディと共にプエルトリコに遠征して事件を目撃する事になったのですが、この手記の日本語翻訳版が掲載された週刊プロレス(2000年8月29日号)をもう一度じっくり読みたくて、実家に帰った時に探し回ってようやく発掘に成功しました。
謎に包まれた事件、マンテルの衝撃的な告白を全文掲載させて頂きます。

        ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

私がプエルトリコに到着したのは事件のあった7月16日土曜日の早朝だった。
私は土曜、日曜のビッグショー2試合だけの契約で月曜にはバーミンガム(アラバマ州)の自宅に戻る予定になっていた。私はラグーン・エル・カナリオと言う、首都サンファンでは一流に属するホテルにチェックインし、ロビーでコーヒーを飲んでいたブロディに会った。
ブロディはトニー・アトラス(アメリカの黒人選手)と一緒に夕方6時に車で会場へ向かうとの事で、私にも同乗を勧めてくれ私は喜んでそのオファーを受けた。
ブロディとは80年にオールジャパン(全日本プロレス)のツアー(新春ジャイアントシリーズ)で一緒に4週間サーキットをしたので気心が知れており、この日のように同じハウスショーで試合をする場合、大抵ホテルと会場の往復は一緒だった。
会場であるバイヤモン・ロブリエル・スタジアムまでは約20分の距離で、私たち3人が到着したのは6時30分頃だった。試合開始は8時だったからセミファイナルとメインイベントに出場する我々にとっては相当早い会場入りだった事になる。

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 現場にいたダッチ・
マンテルの貴重な証言

私たちはいつものように球場側面から控え室に入っていったのだが、この日は控え室に入った途端、妙に重苦しい雰囲気を感じた。もっともここサンファンは大変危険な場所で、いつファンに襲撃されてもおかしくない物騒な土地なのだが、この日私が感じた重苦しさは確かに通常のそれとは違っていた。何故か?と聞かれても答えようがない、私自身理由は分からなかった。ただ、息苦しい程のテンションが確かに存在したのだ。
控え室のドアを開けると右側のベンチにカルロス・コロン(プロモーター兼レスラーでプエルトリコのボス的存在)とインベーダー1号(問題のホセ・ゴンザレス!)が座っているのに気がついた。私たち3人は彼らに挨拶する事もなく奥に歩を進め、そこに陣取って着替えの準備に取り掛かった。
あの時、インベーダーは何か革製の袋のようなものを脇の下に抱えていた。
今思えばあの中にナイフが入っていた事は間違いないのだが、その時点では革袋を意識する事はなく、それが前述した重苦しさの原因だとは気づくはずもなかった。
コロンとインベーダーの間に会話はなく、ただ無言で座っているだけだった。
アタッシュケースを地面に置いた私は会場の様子を見る為に一旦控え室を出た。
この球場は控え室とフィールドが20mぐらいのトンネルで繋がっており、会場の客入りを見るにはこの真っ暗なトンネルを注意深く進んでいく必要がある。
私がトンネルに向かう前、控え室にはブロディ、アトラス、コロン、インベーダーの他にマークとクリスのヤングブラッド兄弟(インディアンレスラー)、TNT(プエルトリカン)、ロベルト・ソト(同)、カスティリオJr(同)の5人がいた。私が陣取った場所がシャワー室に一番近く、ヤングブラッド兄弟ら5人はちょうど反対側に座っていた。
私がトンネルを潜って球場内に入り内野のフェンス越しに客入りを眺めてから再びトンネルをUターンするまで、せいぜい5〜6分の時間だった。大体あまり長くいたら私を見つけた狂信的プエルトリカンに何をされるかわからない。ピストルの弾が飛んで来ても何の不思議もない土地なのだから。
私が再び暗いトンネルをゆっくりと歩き控え室のドアを開けると、そこは既に騒乱状態になっており、何が起こったのか瞬時には把握出来なかった。
最初に私に叫んだのはクリス・ヤングブラッドで彼は「ホセがブロディを刺した!」と二度繰り返した。奥に目をやるとブロディがうつ伏せに倒れ、その周辺を5〜6人のレスラーが取り囲んでいた。
プエルトリコで最もポピュラーなファーストネームは「ホセ」なので、一瞬私は「ホセ」と言うファンがブロディを襲ったのかと思ったが、今度はマーク・ヤングブラッドが「インベーダーだ!インベーダーがブロディを刺した!」と叫んだので私はようやく状況が把握出来た。急いでブロディに駆け寄ると、既にドクターが傷口をチェックしていた。

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 これがブロディ刺殺犯、
ホセ・ゴンザレスだ!

プエルトリコの試合では常にリングドクターが一人用意されていたのだが、ドクターが血を拭う傷口からは既に泡が吹き出ており、傷が肺にまで達している事は明らかだった。
出血の量がさほどではなかったのは内出血の裏返しであり、それだけナイフが深く刺し込まれた事の証明だったろう。
ブロディはまだ息があり、ドクターの横にいたカルロス・コロンに「テイク・ケア・マイ・ファミリー…」と比較的しっかりした声で訴えかけていた。彼は既にこの傷が命を奪う事を自覚していたのだろう、激痛に悶えながらも搾り出すように訴えかけた最後の一言が今も耳奥に残って離れない…。
シャワー室の方で、何やら言い争いをしている2人に気がついた。シャワー室は半透明になっていたが、スペイン語で激しくやりとりしているのは問題のインベーダーことホセ・ゴンザレスとビクター・ジョビカ(レスラー兼ブッカー)だった。それはあわや乱闘寸前の激しい罵り合いだった。

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 プエルトリコのボス、カルロス・コロン(右)とビクター・ジョビカ(右上の顔写真がホセ・ゴンザレス)

ゴンザレスが先にシャワー室から出て来て、後を追う形でジョビカが飛び出して来た。
ドクターは無線を使って救急車を呼んでいたが、一向に先方が受信する気配がない。
しびれを切らしたトニー・アトラスが球場近くのマクドナルドに全速力で走り、電話回線でようやく救急車の手配にこぎつけたが、車が到着したのはそれから25分以上も経ってからだった。この25分が生死を分けた。
ゴンザレスは控え室を出る時、ブロディの様子をもう一度舐めるような目で確認し、車のキーをポケットから取り出すと足早に去っていき、ジョビカが後を追った。
私とアトラスの2人がブロディを担架に乗せ、アトラスが救急車に同乗した。

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 殺人現場となったシャワールーム、床には血痕が!

私はブロディとアトラスの荷物をまとめ、一刻も早く病院に向かうつもりでいた。
もう試合の事などどうでも良く、仲間のアメリカ人レスラーが刺された事がショックで気分が悪く吐きそうなほどだった。
私は荷物をまとめながらクリス・ヤングブラッドに今一度何が起こったのかを冷静に話してくれるように頼んだ。クリスはまだ取り乱しており話に脈絡がなかったが、その説明を繋げると「ゴンザレスがゆっくりとブロディに近づきシャワー室に来てくれと誘った。
ビジネスの話がしたいと言っていた。その右手には白いタオルが巻かれており、そこが妙に膨れていたので何かを持っていた事は明らかだった。1〜2分後、悲鳴が聞こえたと同時に、シャワー室から胸を押さえて飛び出して来たブロディがその場に倒れた。」

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 現場となった同球場では
ブッチャーと血の抗争を
展開

つまりゴンザレスには殺意があった、との説明だった。私は2人の間に過去何があったかを全く知らなかったし、それはアトラスも一緒だったに違いない。とにかくあまりに唐突な事件に信じられぬ思いだった。

クリスの話を10分程聞いていただろうか?驚いた事に病院に行ったはずのアトラスが控え室に戻って来た。病院が近くにあった事は幸いだったが、アトラスは悲痛な声をあげてこう言った。「駄目だ!もう危篤状態で呼吸が途絶えつつある。早くアメリカの家族に連絡を取ろう!」
その時アトラスの後方から地元のポリスマンが3人、事情聴取に駆けつけて来た。
彼らは英語を全く理解出来なかったので、「通訳可能な人間はいないか!」と怒鳴るようにプエルトリカンレスラーに聞き回っていた。ロベルト・ソトが通訳を買って出てくれ、アトラスの英語をスパニッシュに翻訳していたが、驚いた事に3人のポリスマンは薄笑いを始めたではないか! ソトは真剣に説明していたのだが、ポリスマンはこの事件をアングル(演出)だろうと本気にしていなかったのである。取り乱したアトラスの様子も演技と思っていたようで、全く信じられない話だった。
ポリスマン達の不謹慎な態度に業を煮やしたアトラスはソト以外のプエルトリカンに「おい、君たちも証言してくれ!ブロディが刺された事を話してくれ!」と叫んだ。
その時、驚いた事に犯人のゴンザレスが控え室に戻って来たではないか!
しかも上下とも別な服に着替えを済ませた小奇麗な格好に変わっており、近くの友人宅か自分のアパートで着替えて来た事は明白だった。その時に凶器のナイフも何処かに捨てて来たのだろう。
プエルトリカンレスラーたちは「ほら、(権力者の)ゴンザレスが戻って来た。証言なんか出来るわけないだろ。」と言う表情でアトラスの頼みを無視、全員が素知らぬ顔をした。
私にはプエルトリカン全員が敵に見えた。既に彼らはこの事件を闇に葬るつもりなのだ。そうしなければゴンザレスによって解雇される事を熟知していたからだった。

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 事件は日本でも大きく報道された(提供 京都プロレス美術館)

これがプエルトリコ・プロレスの恐るべき実態であった。もし同様の事件が日本で起こったら、目撃者の日本人選手は同じ事をするだろうか!? …しかしその場でプエルトリコと日本の比較をしても始まらない。今にもゴンザレスに襲いかかりそうなアトラスの身の危険を危惧した私は彼を冷静になだめて控え室を出ると、一緒にタクシーに乗ってブロディの手術が行われているエル・メディコ・セントロ病院に向かった。
時間は9時前だったと思う。事件が起きてからまだ2時間程しか経っていないのだ。
病院で受付の若い女性に手術室の場所を聞くと、既に一回目の手術は終わっているとの事だった。その女性はシカゴから来たアメリカ人で英語とスペイン語のバイリンガルだったので状況が容易に把握出来た。
とにかく「まだ生きている」と言う彼女の一言が私たちに救いをもたらせてくれた。
手術室に着くと手術をしたと思われる医師が汗を拭っていた。
「ドクター、私たちは刺されたレスラーと一緒にアメリカから来た者です。命は助かりますか?」
私の問いに医師は「紙一重の状態で今夜がヤマだと思います。」と答えた。
「今夜中にもう一度手術をする必要があります。私一人では手に負えないのでもう一人のドクターを呼んでいます。輸血の量も半端じゃない。とにかく連絡を入れますのでホテルで待機していて下さい。」

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 貴重なアメリカでの宣材
写真

病院からホテルまでは車で15分の距離だったので、私とアトラスは指示通り一旦ホテルに引き上げる事にして、受付のアメリカ人女性に私の部屋番号を伝え緊急時の連絡を頼んでおいた。
ホテルに戻った私はブロディのワイフに連絡を入れようとしたが、あいにく私もアトラスもブロディの自宅の電話番号を知らない。やむなく私はバーミンガムの自宅に電話して妻に状況を説明、サンアントニオなりダラスのオフィス経由で一刻も早くブロディのワイフに連絡が行くように頼んだ。これはまさに伝言ゲームそのものだが、これしか方法がな かったのだ。

(次回へつづく)
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