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社長の経営日誌

孤高の天才 社長の経営日誌 田宮社長が好き勝手に織りなす独白です
 FILE No.490 2016.9.24

「 カムバック(1) 」

 500回までM10 

それにしても暑かった今年の夏…8月前半は「夏男」ミル・マスカラスが来日 (FILE No.487,488「弘前の奇跡!?」参照)、後半の主役はこちらもリビング・レジェンド、テリー・ファンクの登場です!

昨年11月、天龍引退試合(FILE No.450「革命終焉」参照)以来となるテリーの来日、私は今年の4月、レッスルマニアの当日(FILE No.473 参照)のミート&グリードで幸運にもお会いする事ができましたが今回は試合での来日、仕掛け人はレジェンド大好きのNOSAWA論外選手でした。
テリー・ファンク VS NOSAWA論外、最初で最後のシングルマッチが正式発表されたのです。 テリーの日本でのシングル戦は97年、FMWのリングでの冬木弘道戦以来(その後確かWWEでのギミックのチェーンソー・チャーリーとして後楽園でターザン後藤戦がありましたいつだったか思い出せん!)、そしてこれが恐らくは日本での最後のシングル戦となる事は確実でした。

80年代初頭、一時期のブランクを経て再びプロレスファンに返り咲いた私にとって、アントニオ猪木とドリー・ファンク・ジュニア、テリー・ファンクのザ・ファンクスは三大ヒーローでした。
ドリーもテリーも初来日は日本プロレス時代と古く、兄弟揃って世界最高峰と言われたNWA世界ヘビー級王者にもなった超一流のトップレスラーでしたが、本当に日本のファンの心を掴んだのは77年12月の「オープンタッグ選手権」(今も続く世界最強タッグ決定リーグ戦の前身)でのアブドーラ・ザ・ブッチャー、ザ・シークとの一戦でした。
今や伝説となっているなこの試合で、ブッチャーがフォークを持ち出しテリーの右腕を切り裂いたのはあまりにも有名です。
リング内では兄ドリーが孤軍奮闘するも多勢に無勢でブッチャーとシークの二人がかりの攻撃に大ピンチ、その時戦闘不能だったテリーが場外で応急処置を受け奇跡のカムバック、兄を救出したシーンは最高の名場面でした。

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 不屈のテキサスブロンコ魂で優勝したファンクス、
ここからテリー人気が
大爆発!

試合はファンクスが奇跡の逆転優勝、涙を流して感情を爆発させるテリー、ここで絶妙のタイミングで「スピニング・トー・ホールド」のテーマ曲が流れ(試合後に曲が流れたのは恐らくこの試合が元祖)最後まで勝負を諦めない不屈のテキサスブロンコ(荒馬)魂に館内だけでなくテレビを通じたお茶の間のファン、日本中が感動しました。
そしてこの日からテリー人気が大爆発、日本におけるテリー伝説が始まったのです。

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 ブッチャーとの遺恨試合は回を重ねる毎に過激に…
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 ジャニーズも顔負け?
テリーの親衛隊が会場に
出現!

テリーとブッチャーの因縁抗争は全日本プロレスの黄金カードとなり、ブッチャーはフォークに飽き足らず五寸釘や割れたビール瓶まで持ち出すなどエスカレート、血だるまにされる度にテリー人気は高まりました。
この時代のテリー人気がどのぐらい凄まじかったか? 何しろプロレス会場に揃いのハッピや衣装を着た、女子学生の親衛隊が登場したんですよ! テリーの入場にホイッスルを鳴らしボンボン(って言うの?)を振る女の子たち、ここはアイドル歌手のコンサート会場か!? 今、プロレス女子が増えたと言っても流石にここまで熱狂的する人はいません。今思い出しても日本プロレス界始まって以来の超画期的な現象でした。

ファンクスは来日すると日本陣営に加わってブッチャーやシークと戦いましたが、「チャンピオンカーニバル」や「世界最強タッグ決定リーグ戦」では日本人選手と戦う事もありました。しかしジャイアント馬場だろうがジャンボ鶴田だろうが、ファンクスを相手にすると場内からは悪役にされました。

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 冷静沈着な兄と激情型の弟、まさに日本人好みの
キャラクター

昔読んだ馬場さんの著書より…「ファンクスとの試合でテリーにヘッドロックを極めてロープ際でふと客席を見たら、若いOL風の女の子二人組がハンカチを握りしめながら涙目で、「バカ!馬場さんのバカ!」と呟いていた。商売柄えげつない、ガラの悪い野次には慣れっこだったがあれは本当にショックだった。」(笑)
全日本プロレスとしては馬場の後継者、次期エースとしてジャンボ鶴田を大々的に売り出すつもりが想定外のテリーの異常人気で一時期鶴田がくさってしまい、すっかり予定が狂ってしまったほどでした。

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 加熱するファンクス人気
には日本人選手も顔負け

80年、人気絶頂のさなかテリーは「三年後の誕生日に現役を引退する。」と電撃表明、世間をあっと驚かせました。
引退の直接的な原因は爆弾を抱えていた膝がブッチャーのフォーク攻撃によりさらに悪化、このままでは車椅子の生活を余儀なくされるからと言うものでしたが、三年後と言ってもテリーはまだ39歳、あまりにも早い引退を当初は誰も信じませんでした。
テリーが最も信頼する馬場さんですら「日本のマスコミはすぐ本気にするからあまり悪いジョークは止めた方がいい。」とテリーを窘めたそうです。
しかしテリーは本気も本気で大々的に引退ロードがスタート、それは当時興行成績、テレビ視聴率で新日本に水を開けられていた全日本にとっての切り札でもありました。
81年、新日本との間で仁義なき外人選手引き抜き合戦が勃発、テリーの宿敵ブッチャーが新日本へ移籍、最大のライバルが姿を消した事で引退ロードは軌道修正を余儀なくされましたが、そこでテリーが白羽の矢を立てたのが当時の新日本の外国人エース、スタン・ハンセンの獲得でした。
何しろハンセンにとってテリーは大学の先輩であり、プロレス界に導いてくれた大恩人、師匠からのオファーに当然ながら二つ返事で、こうして日本プロレス界最大の移籍が決まったのです。

「自分の役割はテリーに引導を渡す事だ。テリーはテキサスの化石になれ!」と暴言を吐いて全日本マットに乗り込んだハンセンはブルーザー・ブロディと超獣コンビを結成、ファンクスVS超獣コンビは全日本の新たな黄金カードとなりました。
かつてのブッチャー、シークのように凶器は使わないものの全盛期の超獣コンビは肉体そのものが凶器、体力的には既に下り坂のファンクスは大苦戦、そして83年4月14日、我が大阪でテリーとハンセンのシングル対決が遂に実現したのです! 当時高校生の私はテリーの応援に当然会場に行きました。
試合も凄かったのですが引退まであと4か月、この時のテリーの来日会見がとても印象に残っています。
「プロレスには感謝している、だからこそ恩返しがしたい、それぐらいプロレスは俺をゲレーテストにしてくれた!」と涙ぐみながら通訳が追いつかない程まくしたてるテリー、記者の質問は当然大阪でのハンセン戦に及び、戦前予想では圧倒的にハンセン有利と言われる中勝機はあるのか?との厳しい質問が出ました。
「男が命がけで挑んで不可能な事は何もない!ハンセンだって人間、必ず突破口はある!」
私は東スポの記事で読んだだけでもらい泣きしちゃいましたよ(当時は凄く純粋でした 笑)! これは「ウルトラマンエース」第27話でウルトラ5兄弟をも倒したヒッポリト星人に単身立ち向かうTACの竜隊長の「私には命がある。星人にも命がある。命と命を交換すれば勝てる!」にも通じる名台詞です(←例えがマニアックすぎてすみません)。

因縁の一戦で強大な敵ハンセンに対してテリーがとった作戦はスピニング・トー・ホールド一本槍でした。蹴とばされて殴られて流血に追い込まれても再三再四ハンセンの足をとりにいくテリー、決定打にはならなかったもののその姿は鬼気迫るものがありました。
しかしレフェリーが乱闘に巻き込まれ失神してからは無法地帯、何とハンセンはブルロープを持ち出すとテリーの首をぐるぐる巻きして場外を引きずり回す残虐ぶり!

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 ハンセンがテリーを絞首刑!あまりの残酷さにテレビではカット

日本テレビの倉持アナの名調子、「相手は牛じゃない、人間だ〜、止めてくれ〜、ハンセン!」が有名ですが、さらにハンセンはそのままリング(エプロン)までテリーを引きずるとトップロープを利用して全体重をかけテリーを絞首刑! 当時としてはあまりにも残酷すぎるという事で数日後の録画放送ではこのシーンはまるまるカットされましたが、私の近くの女性ファンなんてわんわん号泣してましたよ!
試合は私服姿のドリー・ファンク・ジュニアが乱入しテリーの反則負けとなりましたが (翌日の東スポの一面見出しは「弟が殺される!ジュニア狂乱乱入」)大流血の錯乱状態の中で歓声に応え手を挙げるテリーの姿に痺れました。

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 完全燃焼で燃え尽きた
テリー、涙の絶叫

8月31日蔵前国技館、遂にやって来たテリー引退試合はやはりザ・ファンクスとしての出陣でスタン・ハンセン、新鋭のテリー・ゴディとの一戦でした。
ハンセンとは最後まで決着がつかなかったもののテリーはぼろぼろの状態でゴディから回転エビ固めで3カウント、自らの激闘の歴史にピリオドを打ちました。
「ジャパン・イズ・ナンバーワン!フォーエバー!フォーエバー!フォーエバー!」
マイクで絶叫するテリー、あれから33年が過ぎた今観ても泣ける感動的なシーンで、こうしてテリー伝説は完結したと誰もが思ったのですがそうは問屋が卸しませんでした。

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 この日テリー伝説は永遠となったはずだったが…

思えば引退試合のテレビ中継でテリーが去っていくシーン、倉持アナが「(解説の)竹内さん、いつの日かもう一度カムバックして欲しいですね!」
解説の竹内宏介氏も「日本の全てのファンがそれを願ってますね!」
(おいおい、今まさに引退する人にカムバックの話はないだろ!)と空気の読めないやりとりに違和感を感じたものですが、結果として本当にその通りになりました。
しかし、あの感動の引退から33年後にまだテリーが現役を続けている事を予言できた人はまさかいないでしょう…。

(次回へつづく)
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