(前回からの続き)
時は流れ力道山没後の1968年(昭和43年)、カール・ゴッチは日本プロレスから若手選手のコーチ役として招かれました。これが俗に言う「ゴッチ教室」で、猪木さんは既に馬場さんと並び不動のエースの地位を確立していたにも関わらず率先して若手に混じりゴッチ教室に参加、後に代名詞となる卍固め・ジャーマン・スープレックス・ホールドを伝授されました。
やがて猪木さんは日本プロレスを脱退、1972年(昭和47年)に理想を求め新日本プロレスを旗揚げしましたが、アメリカ最大組織NWAを日本プロレスに抑えられ一流外国人レスラーを呼べなかった為、ゴッチにブッカーを要請しました。
ゴッチは本場アメリカでは不遇な存在で、対戦相手がいなくプロモーターからも敬遠されて事実上の失職、清掃業に甘んじていました。
ゴッチが嫌われた理由、それは「強い者が勝つのが当たり前」の哲学を頑固に守り一切妥協する事をしなかった為です。ゴッチの技術に心酔しその哲学にも共鳴していた猪木さんが救いの手を差し伸べた形となり、日本においてゴッチは「プロレスの神様」として神格化された存在となって行きました。
新日本プロレスは3月6日、大田区体育館での旗揚げに漕ぎつけ猪木さんはメインイベントでゴッチと戦いました。
「私はゴッチの協力で新日本プロレスを旗揚げする事が出来たが、私の心の中にプロレスラーとしての魂が燃え始めた。「実力世界一」「神様」と呼ばれるゴッチを倒したいと言う野望だ。私はゴッチに挑戦を申し入れた。それもじかにゴッチ自身に…。
ゴッチはびっくりした目で私を見た。
「私に正面切って勝負を申し入れて来た馬鹿なレスラーはここ10年間いなかった。
お前もよく知っているだろうが私はリングに上がれば例えそれが親兄弟でも容赦なく叩きのめす男だ。それを承知の上なら挑戦を受けよう。」(猪木自伝「燃えよ闘魂」より)
こうして実現した一戦は公約通りゴッチが29歳の猪木さんをジャーマンで叩きつけリバーススープレックスでフォール勝ち(15分10秒)、新日本プロレスの歴史はエース・猪木の敗戦でスタートしたのです。
そして半年後、再び両者の再戦が実現しました。
「私がゴッチに再度の勝負を申し入れたのはその年の10月だった。ゴッチは勿論快く受けてくれた。そしてゴッチは一本のチャンピオンベルトを持って来日した。
そのベルトは鈍く光る金と銀の台に本物のルビー、サファイア等が散りばめられ一目で年代物とわかるベルトだった。
「これは1950年に初代世界王者のフランク・ゴッチが締めたベルトだ。回りまわって今私の手元にある。このベルトを持っている限り私が実力世界一であるシンボルであり、真の世界チャンピオンだと考えている。アメリカでもこのベルトを皆欲しがっているが誰も私に挑戦して来るだけの勇気がない。イノキ、お前は勇気がある。私に勝ったらこのベルトを与えよう。堂々とリアル・ワールドチャンピオン(真の世界王者)を名乗るが良い。」
(「燃えよ闘魂」より)
NWAこそ世界最高峰と言われた時代にそれにあてつけるかの如くリアル・ワールドチャンピオンとはこの時代から猪木さんの反骨魂爆発ですが、10月4日、蔵前国技館での世紀の世界戦は序盤から猪木さんがキーロックで徹底した腕殺し、コブラツイスト合戦からもつれるように両者場外転落、ゴッチが場外でジャーマンを敢行するも再三のキーロックのダメージから左腕がしびれていた為自身も後頭部を強打し、猪木さんが先にリング内に戻ってリングアウト勝ち(27分17秒)を収め遂に悲願の師匠越え、リアルワールドチャンピオンとなったのです。
新日本プロレスはテレビ中継が無く悪戦苦闘していた時代でしたが、この試合は単発の特番としてテレビ東京(当時は東京12チャンネル)が放送しました。
残念ながら私はまだ幼く(7歳!)プロレスに目覚めていなかったので観ておらず、フィルムも現存しませんが、会場で8ミリ(懐かしいね)を回していた人がいて、わずか数分のダイジェストながら映像を観る(ノイズがかなり酷くとても観られたものではなかったが)機会がありました。また、知人を通じて当時のカメラマンがリングサイドで撮影した貴重な写真を入手しましたのでここに再現致します。実力世界一決定戦と言っても過言ではない幻の世界戦の雰囲気をお楽しみ下さい。
(72年10月4日 ゴッチVS猪木はこちらをクリック)
「真の世界王者」となった猪木さんは5日後の10月9日、広島で赤覆面のレッド・ピンパネール(正体はアベ・ヤコブ)を相手に王座初防衛(27分43秒 卍固め)、リアルワールドチャンピオンシップの挑戦者としてはいささか物足りない人選に感じますが、無名の外国人選手しか招聘出来なかった当時の新日本ではゴッチを別格とすればエース格のピンパネールが抜擢されたのでしょう。
翌10日、大阪ではゴッチが挑戦するリターンマッチが行われ、23分12秒 体固めでゴッチが勝利しベルトの奪回に成功、猪木さんは6日天下に終わりました。
その後このベルトの防衛戦が行われる事はありませんでしたが、75年(昭和50年)、猪木VSビル・ロビンソンのNWF世界ヘビー級選手権に立会人として参加したゴッチが「勝者にこのベルトを贈呈する。」と表明、この時が私がテレビでこのベルトを見た原体験でした。
試合は60分フルタイムドローで猪木さんがNWFを防衛、「真の世界王座」の方はうやむやでした(そもそもこのベルトの王座決定戦とも正式には謳われなかった)。
翌76年(昭和51年)3月25日、ニューヨークで行われた猪木VSアリの調印式にもこのベルトは登場、猪木陣営が会見場にベルトを持参するとショーマンシップ旺盛のアリが目ざとくベルトを持ち「このベルトは俺のものだ!」とアピールしました。
そもそもこの時点の王者はゴッチのはずで猪木さんが持って来る事自体不思議ですが(笑)おかげでアリがゴッチ・ベルトを持つ貴重なシーンが生まれたわけです。
同年12月9日、蔵前での猪木VS柔道王ウィリアム・ルスカの「格闘技世界決定戦」でゴッチが前年同様「勝者にベルトを贈呈」と宣言、猪木さんが勝利(レフェリーストップ 21分27秒)して再びベルトを取り戻しました(やはりタイトル戦とは謳われず)。
その後は長く封印されていたベルトが再び姿を現したのは実に9年後の85年(昭和60年)で、9月19日東京体育館で行われた猪木VS藤波辰巳の師弟対決にベルトが賭けられました(これもノンタイトル戦、レフェリーストップ 35分29秒 猪木勝利)。
結局この王座が正式にタイトルマッチとして行われたのは73年のゴッチとの二連戦及びレッド・ピンパネール戦だけでした。
何故猪木さんと新日本プロレスはこのベルトを主流とせず事実上凍結し、74年に獲得したNWFを看板タイトルとしたのか?その理由はこのベルトの出典が曖昧だった為です。当時から諸説あり物議を醸したそうで、後年その実態は1962年(昭和36年)9月にゴッチがドン・レオ・ジョナサンを破って奪取したオハイオ版のAWA世界ヘビー級王座をモチーフに新日本プロレスが新しいベルトを作成した事が明かされました。
つまり「初代王者フランク・ゴッチが締めた云々」はファンタジー、全くの創作だったわけですが、私に言わせりゃそんなの関係ねえ!
ゴッチから猪木さんに受け継がれ、尚且つロビンソン戦や藤波戦にも賭けられたこのベルトこそがストロングスタイルの象徴、ゴッチ&猪木イズムそのものとして私の中でインプットされていますので権威が揺らぐ事はありません。
ベルトが最後に登場したのは87年3月26日、あの海賊亡霊暴動のあった大阪城ホールで、この日を最後にプロレス実況を引退する古館伊知郎アナに記念品として猪木さんから何とこのベルトが贈呈されました。一説によると当初はレプリカを贈るはずが納期が間に合わず猪木さんの鶴の一声で「いいじゃん、本物をあげちゃえ。」となったとか(笑)。
私にとっては遠巻きながら現場で実際にベルトを見た最初で最後の機会でしたが、その数年後(確か91年頃)、「なんでも鑑定団」を観てたら古館さんがこのベルトを持参して出演されていて驚きました。さらに番組内でついた値段にもっとびっくり、驚くなかれ、600万円ですよ!!
真偽はわかりませんがこれには後日談があり、番組を観た新日本プロレスから古館さんに「ベルトを返して欲しい。」と要請があったそうです。困った古館さんが猪木さんに相談、「俺があげたものだから関係ない。(新日本には)よく言っておくから。」の一言で解決したとか…。
猪木信者&ベルトマニアの私としてはずっとこのベルトのレプリカが欲しかった事は言うまでもありません。
2000年代に入り新日本プロレスが本物そっくりのIWGPのレプリカを発売するグッジョブをしてくれましたので、欲しい商品のファンアンケートがある度に、私の一番好きなNWFとこのベルトをリクエストしていました。
時は流れ2010年、遂にNWFは商品化されましたがこのベルトは未だ日の目を見ず…そりゃあそうですよねえ、私ですらタイトルマッチをリアルタイムで観ていないベルト、あまりにもマニアックすぎますから。
ところがひょんな事から数年前、ネットオークションにてこベルトのレプリカが出回っている事を知りました。アメリカのベルト職人が制作したそうで、早速購入したはいいものの(製作者には申し訳ないですが)クォリティが低くて正直がっかりしました。
勿論写真を見て買いましたのでクレームをつける気など毛頭ないのですが、第1に写真を比較して頂ければ一目瞭然、プレートの出来があまりにチャチなのです。
これは製法の違いによるもので、本物が型から熾した鋳物(いもの)であるのに対しレプリカは鉄板に薬品などでエッチング処理して作ったもの(今のベルトはこの製法が主流)この製法ではどうしても平べったく立体感に欠けるベルトになってしまいます。
第2にこれは写真ではわかりませんが、原寸大写真と比べるとレプリカが二回りぐらい大きいのです。何でこんなに大きく造ったのか正直理解に苦しみます(苦笑)。
そして第3の違い、最初は気が付きませんでしたが、これこそ違和感の最大の原因でした。レプリカは革製ですが、本物はベルト部分が白、赤、青の布で出来ているのです!
今では珍しい布製ベルト、子供の頃から写真で見て何となく気がついてはいたのですが、これじゃあイメージが違うはずですよ。
そこでせめて少しでも本物の雰囲気に近づけようと革を布に取り替える為、いつも革の張替えをお願いしている職人さんに相談してみました。
革職人さんに布の手配をお願いするなんて失礼ではありますが(笑)快く引き受けて下さり、いざGO!と思った時、私の中でムクムクと欲が沸いてきました。
どうせやり替えるならプレートも含めて本物そっくりのクォリティの物を作りたいという思いが抑えられなくなったのです…。
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(次回へつづく) |
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