遂に迎えた600回記念、先ず冒頭は10月頭のネタで、6日に春日部市民文化会館にて裕美さんがゲストの「明治大学マンドリン倶楽部コンサート」に行って来ました。
裕美さんは東京生まれですが幼少時に一家で春日部に引っ越しこの町で育ち、現在は春日部の親善大使を務めている為、この日のステージでは市長からの花束贈呈がありました。春日部のシンボルはクレヨンしんちゃんではなく太田裕美です(笑)!
翌7日は水道橋にて来日中のメキシカン、マリグナ&ミスティク、レイナ女子の会場にて神取忍&井上貴子選手と記念撮影に成功、さらに翌日はザ・タイガー&スーパー・タイガーのトークイベントに参加する事が出来ました。
さて、600回記念と言う事でたまには仕事の話(笑)、今年の当社のトピックスをご報告します。
本年7月1日より大阪府門真市にあった同業の株式会社M&PをM&Aしました。
ビジネス業界でよく聞くM&Aなる言葉はmerger and acquisitionの略称で、企業の合併や買収を意味します。
株式会社M&Pは資本金1000万円、年商約一億、社員6〜7人の会社で、実は元々当社に在籍していた滝本さん&前田さんという二人の元社員が独立起業したものでした。
滝本さんはうちの親父が会社を作った時に入社した社員第1号で、私が箱の中でビイビイ泣いている時から知っている方(笑)、私が子供の頃もしょっちゅう我が家に出入りしており、釣りとかスキーに連れて行ってもらったり、私がプロレスにハマりだしてからはよく一緒にテレビ中継を観ていました。
古き良き時代の昔話はともかく、その滝本&前田のご両人が独立したのは1992年(平成4年)の事、当時私はまだ東京にいましたので(タミヤに入社したのは翌93年)詳しい経緯はわかりませんが、後に滝本さんと話したところによると、うちの親父(当時は社長、現会長)に恩義は感じているが、ナンバー・ツーの専務(後に一時期社長)との確執、また自分と同じ部長職の幹部(やはり後に独立した通称アルカイダ 笑)があまりに無能なのに厚遇されている事などの不満が鬱積し、前田さんと組んでの独立心を駆り立てたようです。
但しこのお二人は後に謀反を起こした連中とは違い、きちんとうちの親父に筋を通して自分たちの気持ちを伝え相談、円満に独立を果たしうちの親父もお得意先を譲渡し仕入れ先にも新会社への支援をお願いするなど太っ腹なところを見せました。
お二人は自動包装機械の販売及びメンテナンスに長けていた事から社名をマシーン&パッケージを意味するM&Pとしたそうです。
当社と資本関係こそ無いもののその経緯からその後の関係も良好で、情報交換や売り買いなどの交流もありましたし、「社長10年史」の中で詳しく触れたように、私が社長になってアルカイダの陰謀により当時いた機械部の小悪党3人組が同時に退職、メンテナンス業務が出来ないピンチに陥った時には自社の仕事を差し置いてヘルプして下さり、その事は今でも恩義を感じています。
時は流れ、そのM&PさんからM&A(ダジャレか 笑)の話があったのは昨年末の事でした。前田さん、滝本さんともご高齢となり健康面に不安がある事、後継者が不在な事もあって今後の道筋をつけて勇退したいとの意向で、前述のように後ろ足で砂をかけた連中とは違うので私は全く異存も抵抗もなし、年明けから水面下で条件を詰め始めました。
一口にM&Aと言っても、その会社の全株式を買い取り子会社化する、あるいは吸収合併するなど、やり方はいくつかありますが何分にも我が社にとっても実質初めての経験、お世話になっている税理士の先生にアドバイス頂き、比較的一番手続きが楽そうな事業譲渡の形をとりました。
これは読んで字の如く当社がM&Pから全ての債権、債務を買い取り事業を引き継ぐもので、具体的には社員は全てタミヤで新たに雇用し、お得意先も全て当社の商権へと移行、前田&滝本の両オーナーとは期間限定で非常勤の顧問契約を結び相談役的な仕事をお願いする事になりました。
スタートとなる7月が悪い事に当社の新しいシステムの稼働時期とも重なってしまい、翌月にはすぐにお盆と冷や冷やものでしたが内情はともかく(苦笑)、どうにか形にはなりました。例え同業とは言え会社が変わると一から覚える事も多々あり、新たに仲間となった旧M&Pの方々も大変だったでしょうが、よく頑張ってくれています。
因みに門真の事務所&倉庫は閉鎖し当社に集約しましたが、法人としてのM&Pは休眠会社として現在も残っています(いずれ清算という形になるかと思います。)
M&Aの話は今回が初めてではなく、私が社長になってから成立はしなかったものの二度ほど持ち込まれた事があります。一つはあるメーカーを通じて来た兵庫県姫路市にある同業で、もう一つはM&A専門のコンサル会社からの三重県桑名市にある同業を買収しないか、と言う話でした。
いずれも大きな理由の一つは後継者不在で、事業規模などそれなりに魅力はあったのですが、姫路、桑名と遠距離なのがネックでした。物流面でのシナジー効果はありませんし、当社の子会社にするにしても誰かを社長として常駐で赴任させなければ立て直しもままなりません。じゃあ誰を?と社内を見渡すと該当者がいない(苦笑)。これは冗談ではなく我が社も人がいるようでいないのですよ。経営能力に長けたしっかり者がいない事は無いのですが、むこうに派遣するとこちらの本隊側が手薄になるのですから本末転倒、人材難は中小会社の共通の悩みですわ(涙)。
えっ、おまえが行けって(笑)?馬鹿野郎、うちで一番忙しいのは俺様なんだよ(笑)!
結局当社が断った為、姫路の会社は紹介先のそのメーカーが自分のところで、また桑名の会社は別の同業が子会社化したそうです。
ここまでは当社が買う側の話でしたが、実は買われる側の話が持ち上がった事もありました。今から12年前、当社が最大の得意先の取引を失って窮地に立った時、私が知らないうちに会長が業界最大手の広域問屋とM&Aの話を進めようとしたのです。
これは当時会長にくっついていた、某メーカー出身のコンサルタントが焚きつけた話でした。会社の将来に危機感を持ったところを付け込まれた形ですが、何しろM&Aが成立した時の成功報酬は莫大ですからねえ…ほんとこの手のコンサルは当たり外れがありますわ(笑)。
勿論会長の焦る気持ちもよくわかりましたが、だからと言って社長を無視しての暴走には唖然…私が信頼する顧問の先生も「これは社長に対する裏切り行為だよ!」と怒り心頭でした。
事後報告で話を聞かされ、「おまえが社長を続けるのか、このまま身売りの話を進めるのかよく考えて返事をしろ」と会長に迫られ(おいおい、勝手に話してそりゃないよ)と思いましたが、正直この時の私は相次ぐゴタゴタに心身ともに疲れ切っていました。
実家の母親からも「しんどかったらもう辞めてもいいのよ。」と電話があり、ぼんやりと空を見上げて(会社の存続、社員とその家族の生活を守る為にはで大手のグループ入りするのもいいかな、私は今更他の仕事が出来る程器用じゃないので、肩書きは何でもいいので新たに一社員として雇用してもらい頑張ろうか…)とずっと自問自答を繰り返していました。
淋しいブルーな気持ちの長い一日でしたが、一晩過ぎると闘志に火がついていました。
社長になって6年、様々な向かい風の中で会社の癌をようやく取り除き、若い社員たちが少しずつですが育って来ていた中、つまり苦しい中にもほんの一筋の光明が見えていたのに、ここでギブアップしてたまるか!と自分を奮い立たせたのです。
…ハイ、ここ私の物語がドラマ化された時に一番盛り上がる感動のシーン、皆さん「華麗なる一族」のテーマをBGMにお読みください(笑)。
会長に正式に「私がやります」と返事をした事によりこの話は自然消滅しましたが、後で聞いた話、会長が先方の会社と会った時、(M&Aが成立したら)「現社長(私)には降りてもらう」と言われ「冗談じゃない」という話になったそうです(笑)
会長は先方のグループ会社となっても私の社長体制で継続出来ると思っていたようですが、あのねえ、株式を100%譲渡するという事は文字通り他人の会社になるのですよ、誰を社長にするか先方が決めるのは当然ですよ。
相手は何が何でも当社が欲しかったようで、会長がへそを曲げると慌てて後日、「現社長でやって頂いてかまいません」と譲歩して来たそうですが、それもせいぜい数年、ほとぼりが冷めた頃には「はいご苦労さん」ですよ。
もっとも私は他人資本になったら社長の椅子になんて固執しなかったのですがね。
ん?でも最終的な責任はないし、それなりの権限はあるし、考えようによっては「雇われマダム」って美味しかったかな(笑)?
冗談はともかく、堂々と(ドラマ化を意識して?)「私がやる」と決意表明した私ですが、本音の部分では多少セコい駆け引きもありまして、身売りするのはいつでも出来る、今回の相手以外にも業界には資本力のある大手は沢山いるのでいざと言う時の交渉相手には困らない、それならば自分の力で何処まで出来るか精一杯頑張って、いよいよ独力では生き残れないと判断した時に初めて嫁ぎ先を考えりゃいいと思ったのです。
経営者の務めは企業の存続、もっともやってはならないのが自分の変な意地で会社を自滅させてしまう事、出来れば使う機会のないのが望ましいですが、いざと言う時のカードは大切に隠しておきましょう。
600回記念でM&Aが成立した事で、昔のM&A話を思い出しましたがあれから12年、苦しいながらも独力で経営出来ている事に感謝し、原点に還った気持ちで100年続く会社を目指します。
来週は601回記念(笑)!?
|