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社長の経営日誌

孤高の天才 社長の経営日誌 田宮社長が好き勝手に織りなす独白です
  FILE No.670 2020.3.21  

「 幻の金メダリスト 」

1月18日、昨年自伝を出版された谷津嘉章さんのトークイベントに行って来ました。

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 谷津嘉章さんが緊急出版した自伝

谷津さんはアマチュアレスリングで輝かしい実績を残してプロに転向、80年代には新日本プロレス〜全日本プロレスを戦場としてゴールデンタイムのテレビにも登場していましたので、ご存じの方も多いでしょう(知らない奴はモグリだ!笑)。
その谷津さんが昨年6月、糖尿病が原因で右足の膝から下を切断したニュースは大ショックでした。

足利工業大学附属高校から日本大学とアマレスで鳴らした谷津さんは1976年のモントリオール五輪に日本代表で出場し8位(フリースタイル、90Kg級)、その後もアマレス全日本選手権や全日本大学選手権など各大会で優勝を総ナメして日本アマレス史上最強の男とまで言われました。
大学卒業後は足利工大の職員となって練習を続け、80年のモスクワ五輪での金メダル獲得は間違いなしと見られており、大学の理事長の計らいで米国や旧・ソ連に単身武者修行と言える長期合宿を敢行し80年春に帰国、金メダルへのお膳立てが全て揃った時、衝撃のニュースが舞い込みました。
79年にソ連がアフガニスタンに侵攻、西側諸国はその対抗措置としてモスクワ五輪のボイコットを検討していましたが5月25日、日本もアメリカ、西ドイツ(当時)など50ヵ国とともに国家としてのボイコットを決めたのです!
「あれで人生が変わった」と谷津さんが生涯で最も衝撃を受けた日…
「ショックと言うより申し訳なかった。理事長には海外遠征であれだけ大金を使わせちゃって、こんなにお世話になったのにオリンピックに出られないのは心苦し過ぎる。次のロス五輪を目指すにしてもまた4年間お金を出してもらうと思うと…」(自伝より)

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 「幻の金メダリスト」となり心機一転、プロレスラーに転向、「凄いヤツになる」と期待がかけられたが…

「幻の金メダリスト」となった谷津さんはこの時24歳、大学に講師として残り84年のロス五輪を目指す選択肢もありましたが、もうここにはいられないと思いきり人生の舵を切りました。以前から何度かアプローチのあった、プロレスラーへの転向を決断したのです。
かくして10月23日、京王プラザホテルにてアントニオ猪木、坂口征二が同席して鳴り物入りで超大型ルーキーの新日本プロレス入団が発表されました。
「凄いヤツになる!」と高らかに宣言してのプロ転向、しかしその後の谷津さんを待っていたのは波乱万丈のプロレス人生でした。
「俺は馬鹿だよね。プロレスをガチだと思っていたからね。一番最初は単純に強ければいいんだと思った。アマレスなら絶対かからないような技がプロレスならかかるんで、プロレスラーはこんなに力があるんだと思っちゃうしさ。入ってからプロレスがショーだ、エンターテインメントだと知った時は心底がっかりしましたよ。プロレスになんか入っちゃいけなかったんです。あそこが人生の交差点でした。もう一度あの時に戻れるとしたら大学に残っていたほうが良かったと思う。だって俺はプロレスには向いていない、なんて言うんだろう、俺はやっぱり役者にはなれないんですよ。アマチュアの実力はスター性と関係ないけれど、強い弱いでなくエンタメの力量、それはそれで奥深いんですよ。」

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 史上最も残酷なデビュー戦、プロの洗礼と呼ぶにはきつすぎる内容に

翌81年6月24日、蔵前国技館のメインで組まれた谷津さんの日本デビュー戦は悲惨でした。御大・アントニオ猪木とタッグを組んでスタン・ハンセン、アブドーラ・ザ・ブッチャー組と戦う、よく言えば大抜擢、悪く言えばあまりに無謀なマッチメイク、やはり結果は凶と出ました。
先発した谷津さんが威勢の良かったのは最初の1分間だけ、あとはハンセンとブッチャーに代わる代わる蹂躙され文字通りのなぶり殺し、血だるまで戦闘不能となりKOされてしまったのです。期待の新人のデビューとなると普通は勝てないまでも良いところも見られるものですが過去から現在、ここまで残酷なデビュー戦はちょっと記憶にありません。
さながら公開処刑、この裏側に果たして何があったのか?
当時マッチメイカーのミスター高橋は著書でこう振り返っています。
「ブッチャーも新日本移籍第一戦だったし良いところを見せなきゃいけない。今思えばブッチャーのパートナーを(名脇役の)バッドニュース・アレンあたりにして谷津に勝たせても良かったと思うが、とにかく会社は叩き潰しアングルにこだわった。やむなくハンセンとブッチャーに一切相手の良さを引き出さず遠慮なく行け!と伝えたら二人共大喜びでしたよ。あれだけの大型新人が大成出来なかった原因はデビュー戦の躓きにあるような気がします。」
「例えオリンピック・エリートであろうとプロの水は甘くない!」まさに獅子が我が子を千尋の谷に落とす的なマッチメイクで、猪木さんは後年、やはり期待の新星だった武藤敬司や馳浩との初対決でも叩き潰し的な試合をやっています。ただ、この時は直接対決だったので師弟による闘魂伝承が感じられましたが、外人に潰された谷津は商品価値が暴落しただけの印象でした。
「もうプロレスなんて辞めて帰って来い!」と父親や親戚から谷津さんのもとに電話があったほどの悲惨なデビュー、因みにこの試合は「水曜スペシャル」の枠で生中継され、翌日学校(当時私は高校一年生)に行くとクラスメイトたちが口々に「なんだよ、あの谷津って弱いな!」と言っていたのを覚えています(苦笑)。

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 長州力、ジャンボ鶴田と名タッグを結成も常に補佐役

プロレスに馴染めないままズルズルとスランプに陥った谷津さんはその後、83年に維新軍に加入して長州力とタッグを結成、さらに維新軍全員でジャパンプロレスへと集団移籍し、ジャパンが提携する全日本プロレスへと戦場を変えました。
87年にジャパンが分裂すると全日本マットに残留、今度はジャンボ鶴田との“五輪コンビ”を結成しましたが、長州とのコンビ同様、あくまでナンバー・ツーの立ち位置でした。
トークの時、「俺が散々相手に攻められて、長州やジャンボにタッチするから彼らの攻撃が引き立つ」と苦笑いしていたのを聞いた時、88年最強タッグの名古屋大会、鶴田・谷津VSゴディ・ウィリアムス(30分フルタイムドロー)がテレビ放送(当時日曜夜10時半)された翌日、職場の先輩が私に「昨日の試合、谷津一人で試合してて可愛そうやったなあ。」と感想を漏らしたのを思い出しました(笑)。
また、これまた当時の先輩でやたらと「谷津は強い!本気でやったら長州や鶴田なんて目じゃない!」とやたら谷津さんを持ち上げる人がいまして(笑)、私は(何言ってんだ、あんたわかってるの?)と思っていましたが、ことアマレスの実績なら谷津さんが格段に上、そう思うと私らのようななまじ通ぶったマニア崩れより素人の方がよほど見る目ある(苦笑)?
金メダルは取り損なった谷津さんでしたが、86年にはプロ・アマオープン化の波に乗り、現役プロレスラーでありながらアマレス全日本選手権(130Kg級)に出場する機会が与えられました。6年ものブランク、もし負けたらプロの名折れと相当のプレッシャーがあったはずですが、谷津さんは「青春の決着」をつける為に果敢に挑戦、見事優勝の快挙をやってのけ世間を驚かせました。
NHKのテレビで観ていて、優勝インタビューで「あなたにとってアマレスとは?」と聞かれた谷津さんが「三十路の青春かな。」と答えた時、ほろっとしたものです(涙)。

90年にSWSに移籍しバブルの恩恵を被るも、そのSWSが二年余りで解散すると自らの手でインディ団体SPWFの旗揚げ、ここから谷津さんは坂道を転がるようなプロレス人生を余儀なくされます。
そして2000年には団体の運転資金を稼ぐ為、初めてPRIDEに参戦、もし80年当時に総合格闘技があったら、プロレスでは無く間違いなくそちらに行ったと言う谷津さんでしたがこの時既に44歳、正直20年遅い総合のリングでした。
大方の予想通りゲーリー・グッドリッジの前にわずか1ラウンドであえなくTKO負け(翌01年の再戦も同じ結果に)、もし20年前なら後の藤田和之のように大活躍したかと思うと、ここでもタイミングの悪さを痛感します。
この後WJを経て引退、様々な事業を始めるも失敗し、冒頭に記した通り右足をも失うなど不運続きの人生…トークショーを前に著書を拝読しましたが、正直やりきれない気持ちになりました。足を落とした直後の執筆だったせいもあるのでしょうが、
「プロレス入りしてからはやる事なす事失敗ばかり、今は何もなくなっちゃった、右足もね。」「凄いヤツになると宣言したけど、振り返ると駄目なヤツになっちゃったね。」
「中途半端なんだよ、谷津嘉章ってのは人生がずれていますから。生まれたのも後悔しています、本当に。プロレスもアマレスもどっちも大事にすればもっと極められたんですよね。」とネガティブ発言を連発、プロレスラー谷津嘉章をずっと観てきた我々からすれば「プロレスなんてやらなきゃ良かった。」「生まれて来た事も後悔」とまで言われてはあまりに辛すぎます。

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 義足を披露する谷津さん
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 ツーショットはグッドリッジ戦で見せた谷津ガードで!
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 谷津さんは「凄いヤツ」でした!

そんなわけで普段ならウキウキするイベント前にも関わらず、今回だけは気が重かったのですが、実際にお会いした谷津さんはすこぶる元気でした。
トークは二部構成で1部が新日本〜ジャパン、2部がSWS以降を振り返る流れでしたが、軽口のジョークを交えながら和やかに進み、途中赤いマフラー姿の私を見て「ファンの前で言うのもなんだけどさあ、“元気ですかー!の人には未だにアントンハイセルの社債(の金)返してもらってないんだよなあ。」とかつての師匠への皮肉もチクリ(苦笑)、辛口でしたが明るい話しぶりにほっとしました。
「自分がそうなって初めて身体障害者の方の気持ちがわかった。」と言いいながらもどこまでも前向きで、ちょうどこのブログ更新時は目前になっていますが3月29日には地元の栃木・足利で東京オリンピックの聖火ランナーを務める事が決まりました。
40年前、金メダル確実と言われながらオリンピックに出られなかった谷津さんが義足にも関わらず聖火を持って走る姿は多くの人に勇気と感動を与える事でしょう。
さらに冗談か本音か、「いつか義足のままリングに上ってやる!」とまでぶち上げた谷津さん、決して無理はして欲しくありませんが、過去にも義足で試合をしたレスラーの例はありますので、ひょっとするとひょっとするかもしれません。
谷津さんはやはり「凄いヤツ」でした。これからの人生に幸多かれと心より願っています。

緊急特報!
3月18日に会見が行われ、6月7日・DDTさいたまスーパーアリーナ大会にて谷津選手の試合出場が電撃発表!!やれんのか!? 私も観戦予定につき目一杯応援します!!

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