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社長の経営日誌

孤高の天才 社長の経営日誌 田宮社長が好き勝手に織りなす独白です
  FILE No.685 2020.7.4  

「 引き抜き(2) 」

(前回からの続き)

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 シンが疾風の如く、全日本に乱入!手に持っているのは?

ドル箱だったアブドーラ・ザ・ブッチャーを猪木・新日本に引き抜かれた馬場・全日本は早くも報復に出ました。
このブログ更新日でもある1981年7月3日、熊谷市民体育館での「サマーアクションシリーズ」開幕戦のメインイベント(ジャイアント馬場、ジャンボ鶴田 VS ビル・ロビンソン、ディック・スレーター)をタイガー・ジェット・シンが急襲したのです!

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 開幕戦のメインを襲ったシンは無差別テロ

新日本のリングで8年に渡り猪木と血の抗争を展開して来たシンの登場に場内は騒然となりましたが、よく見るとこの日シンが持っているのはトレードマークのサーベルでは無くモップの柄(笑)、実はあのサーベルは本人の所有物では無く毎シリーズ新日本が用意していた小道具だったので、この日は調達が間に合わなかったのです(笑)。
シンは新日本の「第4回MSGシリーズ」に参加していましたが、その来日中に馬場が自ら接触、口説き落とす事に成功していました。
かくして、わずか二ヶ月の間に新日本と全日本のトップヒール(悪役)がそっくり入れ替わる珍事となり、一般週刊誌などは「引き抜き合戦は実は出来レース、馬場と猪木は示し合わせて外国人選手の交換トレードをしたのではないか?」と憶測記事を書いていたほどでしたが、これはマジも大マジのガチンコ、特に仕掛けられた側の馬場の怒りは尋常では無く、実はシンとほぼ同時進行でもう一人の超大物の獲得にも成功していましたが、それが発覚するのは半年ほど先の事でした。

ブッチャーに続いてシン、火蓋を切った両団体の仁義なき戦い、次は誰が動くのかに注目が集まりましたが、この後シンのパートナーだった上田馬之助も新日本から全日本にスイッチ、秋には全日本の常連だったディック・マードックが新日本に移ると、逆にチャボ・ゲレロは新日本から全日本へと、果てしない泥沼状態が続きました。
この状況を一番喜んでいたのは外国人選手たちで、82年1月に全日本から新日本に移籍したワフー・マクダニエルはインタビューで「ババとイノキの喧嘩を我々外国人レスラーは大変歓迎している。理由はギャラが上がるからだ。」とはっきり明言していました。また、中にはハルク・ホーガンのように全日本から提示された条件を新日本に開示しギャラアップを勝ち取ったちゃっかり者もいて、両団体ともこのままでは外国人に舐められるだけなので何処かで歯止めをかけたいのが本音だったでしょうが、一旦走り出したら止まれない状況でした。

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  年末に起こった大ハプニング!まさかのハンセン、全日本登場!
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 師匠で大恩人のテリーに
宣戦布告のラリアット!
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 ブロディ、スヌーカの優勝をアシストしたハンセン
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 無法乱入に馬場が怒りのチョップ、一発でハンセンは大流血

そして年の瀬も押し迫った12月13日、遂に今回の引き抜き戦争に終止符を打つ大型爆弾が破裂しました。
蔵前国技館で行なわれた全日本の年内最終戦「81世界最強タッグリーグ戦」優勝戦のザ・ファンクスVSブルーザー・ブロディ、ジミー・スヌーカ組の試合で、ブロディ組のセコンドとして、二日前まで新日本に上がっていたスタン・ハンセンが登場したのです!
親友のブロディに加担したハンセンは場外でテリーにウエスタンラリアットを見舞ってKOする暴挙、リング内で孤立したドリーは一人で善戦したものの最後は力尽き、ブロディのキングコングニードロップにフォール負け、ブロディ組の優勝が決まりました。
試合後もブロディ、スヌーカとハンセンが三人がかりでドリーを痛ぶっていると馬場、鶴田ら全日本勢が救出に現れ修羅場となりましたが、翌82年からのハンセン参戦に向けてこれ以上は無い大デモンストレーションとなりました。
「最大の大物」移籍に全日本のファンは狂喜し、新日本のファンは歯軋りして悔しがった衝撃の一夜…私もこの40年間、引き抜きや移籍に伴う乱入劇を何度も目撃して来ましたが、未だこの日を越えるインパクトはありません。

馬場は6月の段階で、新日本の「MSGシリーズ」から帰国したばかりのハンセンとダラスの空港で会談、年末まで残る新日本との契約が終了した後の移籍の快諾を得ていました。
先手必勝とばかりにブッチャーを獲ったものの、ハンセンとシンの二枚看板を失った事は新日本にとって大誤算、特に当時のハンセンは外国人の人気ナンバーワン、絶対エース的存在でIWGP開催時には猪木とハンセンが優勝を争うと見られていただけにショック大でした。
しかもそこまでの犠牲を払ってまでも獲得したブッチャーを活かせず85年の1月で契約終了、ワフー・マクダニエルはリング外のトラブルで82年1月の一度きりでお払い箱、結局全日本からの移籍組で一番長く続いたのはディック・マードックでした(89年まで参戦)。
一方、シンは全日本で90年まで9年間、ハンセンに至っては2000年に引退(2001年1月28日引退セレモニー)するまで、なんと19年もの長きに渡って全日本の外国人エースとして貢献したのですから、この引き抜き合戦は全日本に軍配が上がりました。
本気で怒った時の馬場の恐ろしさを思い知らされた新日本はハンセンを抜かれた直後第三者を通じ、全日本に話し合いを申し入れました。
「俺は別にいいよ。この喧嘩は元々こちらが仕掛けたわけじゃないからな。」と馬場は度量の大きさを見せ、82年2月7日、ホテルニューオータニで極秘裏に馬場、猪木、新間氏の三者会談が実現、この後4月には馬場ー新間会談が行われ停戦成立、選手の引き抜き防止協定が結ばれました。
しかしこれはあくまで水面下での誰も知らない話、ファンやマスコミは未だ戦争が続行中と思っていました。
「引き抜きは今後も止めない。現に今も三人の選手に声をかけている。これは企業戦争だ相手を潰すまでやる。但しウチは全日本のように札束で頬を張るやり方はしない。
猪木イズムに共鳴する選手に門戸を開く。」(新間)
「日本人、外国人を含め、全日本から動く選手は一人もいない。万一、一人でも抜かれたらその時は新日本の外国人を全員引き抜く。」(馬場)
和解を悟られないよう、表向きは真逆のコメントをしていたのですから二人共相当タヌキです(笑)。
ファンも勝手なもので、例えばハンセンが移籍したら馬場VSハンセン等、これまで夢でしか無かったカードが実現するのが嬉しい反面、もう猪木VSハンセンが観られなくなるのが残念と言う思いもあり、出来るなら外国人選手がどちらにも自由に出られるようなシステムの確立が理想的でした。
水面下で手打ちとなったのですから、ゆくゆくは選手の貸し借りやトレード、交流戦が期待されましたがそうは問屋が卸さない、翌83年に新日本内部で起こったお家騒動で新間さんが退社、84年に前田らがUWF、長州らがジャパンプロレスに走るなどゴタゴタが続き、ジャパンは全日本と提携し長州らは事実上全日本に移籍、さらにキッド&スミスを全日本が穫れば新日本は報復にブロディを引き抜き返すと、またしても元の木阿弥に戻ってしまいました。

旗揚げ以来「相手を叩き潰してやる!」の気概で競争していた両団体、ファンも新日本派と全日本派に別れそれぞれ肩入れしていた熱い時代、確かに引き抜き合戦はいささかえげつなかったものの、そういった側面も避けては通れず、実際それによってマット界が活性化して来たのも事実です。
両団体が大きな仕掛けが出来たのもテレビ局が今では考えられないぐらいの破格の予算をかけバックアップして来たおかげで隔世の感あり、ああ昭和が懐かしい(笑)…。

と、この駄文を書き上げた矢先、またもや当社に引き抜き屋さんからのダイレクトメールが届きました。
ハンセン級の大物でも紹介してくれるのか(笑)? いえいえ、当社は自家製にこだわるので間に合ってます(笑)。

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