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社長の経営日誌

孤高の天才 社長の経営日誌 田宮社長が好き勝手に織りなす独白です
  FILE No.706 2020.11.28  

「 黒船来航(1) 」

〜 SWS旗揚げ30周年記念 〜

早いものでもう終わりが見えて来た2020年、思えば今年はSWSの旗揚げ30周年記念の年でした。
大手眼鏡チェーン店、メガネスーパーがプロレス新団体・SWS(メガネスーパー・ワールド・スポーツの略称)を旗揚げしたのはバブル真っ只中の1990年の事でしたが当時のマット界は、すわ、黒船の来航と大騒ぎになりました。力道山から始まりジャイアント馬場、アントニオ猪木と、それまでのプロレス団体はリング上の絶対エースが子分を連れテレビ局のバックアップを得て社長兼レスラーを務めるのが常識でしたが、そこに突然全く異業種の大企業が乗り込んで来たからです。
あれからもう30年が過ぎたのかと思うと感慨深いと同時に、SWSの事を思うと私には常に忸怩たる思いが残ります。

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 「SWSの幻想と実像」
小佐野景浩 著

このブログでプロレスネタを取り上げる場合、本来ならなるべくプロレスファン以外の方にも分かりやすいように書くのをモットーとしているのですが(ほんとですよ 笑)、ここでSWSの設立から解散までを時系列に解説していたらそれこそ一冊の本が出来上がってしまいますし、SWSを検証した単行本やムックは数多く出版されていますので是非ご一読下さい。特にお薦めが天龍さんの番記者として有名な小佐野景浩さんの著書「SWSの幻想と実像」で、ほんと下手なミステリー小説より遥かに面白く、何度となく読み返しました。
そんなわけでSWSに関しては語り尽くされた感があり今更私ごときが書き加える事も殆ど無いのですが、前述のようにあまりに無念の思いが強く、歴史に「たら・れば」「IF」が無いのを承知の上で、もしあの時こうなっていたら?と言う妄想を書き連ねてみます。

メガネスーパーの創業社長である田中八郎氏(故人)は元々真剣勝負志向の方で、UWF(第2次)をガチンコの格闘技と信じてSWS設立の前年(89年)までスポンサードしており、行く行くは子会社にしたかったと言われています。
この時期社会現象と呼ばれる程のブームだったUWFが、もしこの時メガネスーパーの傘下となっていたら文字通り盤石の体制、91年からはWOWOWの放映も決まっていましたし、将来的にはUFCも真っ青の日本発・巨大総合格闘技団体となっていた事でしょう。UWFはフロントと選手(主に前田日明)の対立によって崩壊しましたが、メガネスーパー傘下となる話がフロントでなく前田日明主導だったら(前田が社長だったら)案外スムーズに進んでいたかもしれず、この事は今になって前田さんも後悔しているようです。

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 マット界に黒船! メガネスーパーがプロレス新団体結成
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 超大物の新団体移籍に騒然

UWFの買収が叶わなかった田中社長は自らプロレス団体の立ち上げを決意、交流のあった若松市政や桜田一男が使者となり、新日本プロレスからジョージ高野と佐野直喜、全日本プロレスから天龍源一郎の引き抜きに成功しました。
当時プロレス界の人気ナンバーワンの天龍移籍に驚かされましたが、実はこちらはプランB、元々プロレス界の次世代の新エースを中長期的に育てていくのをコンセプトにしていたSWSの最初のターゲットは新日本のホープ、武藤敬司でした。
二度目のアメリカ修行中に若松と桜田から誘われた武藤は帰国後に田中社長と面談、破格の条件提示に一度は移籍を決意しますが、坂口征二(当時新日本プロレス社長)に慰留され結局SWS入りは白紙となりました。
武藤は最終的に残留を決めた理由を「あまりにも話が大き過ぎて、あの時点の自分がそんな大役(新団体のエース)を務める自信が無かった。日本ではUWFスタイルが蔓延していたからね。」と振り返っていますが、私はこの4年前(86年)、「スペース・ローンウルフ」としての一度目の凱旋帰国時のファンの冷たい反応がトラウマになっていたのだろうと推察します。
桜田さんがインタビューで「あの時武藤が来ていたら違っていたかも…」と語っていましたが実は私も同感です。あれだけ抱負な資金を持ちながらSWSが失敗した原因は突き詰めれば二つ、ポリシー無き寄せ集めメンバーによる派閥争いと週刊プロレスが大バッシングをした事による悪影響で興行人気が上がらなかった事でした。

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 多くのレスラーが集まったが果たしてポリシーは…

いみじくも天龍が「新団体と言うのはフレッシュさが大事なんだよ。」と言いましたが、武藤を若き新エースとした路線であれば天龍一派の移籍は無く、選手の人数は少なくともまとまりがあったでしょうし、週刊プロレスの書き方も全く違ったものになっていたはずです。
武藤に、23歳で東京プロレスの旗揚げに参画したアントニオ猪木ほどの野心があれば間違いなくプロレスの歴史は変わっていました。極論を言えば武藤獲得に失敗した時点で新団体構想は白紙に戻すべきだったとすら思います。

田中社長は後年、「無作為に選手の引き抜きをやった事が最大の失敗だった。今振り返ると選手より先に経営者を作るべきだった。それこそ坂口さんみたいなしっかりした人を連れて来て、よく話し合い急がず土台をビシッと作って選手を独自で育てるべきだったんですよ。」と反省の弁を述べていましたが、確かにプロレスに熟知した強力なブレーンを用意してコンセプトから組織作りまでを任せるべきでした。
まさか坂口さんが来るわけないので(笑)またも妄想ですが、私なら絶対に新間寿さんをヘッドハンティングしていました。
新間さんはこの時スポーツ平和党の幹事長の要職にあり、元々がアントニオ猪木ありきの方なので、当然猪木さんに協力要請していたでしょう。
「新日本から選手を回してくださいよ。」「俺も後から行くよ。」 おっと、これは第一次UWF構想の再現(笑)、しかしそれこそ武藤の円満移籍も実現したでしょうし、しかも新間さんは馬場さんともパイプがあるので、選手の貸し出しの可能性も十分にありました。つまりは新日本や全日本に敵対するのではなく、共存共栄する形がとれたのです。これが出来ず、無差別に引き抜きをやってしまい侵略者扱いされた事がそもそもの躓きでした。
幕末の日本に開国のきっかけを与えたペリーになぞらえ、業界の既成概念を覆す引き金となった出来事を黒船に例えますが、鎖国時の日本以上に閉鎖的だったマット界はSWSの誕生を「黒船来航」ではなく「黒船襲来」と捉えバッシングしたのです…。

(つづく)
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