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社長の経営日誌

孤高の天才 社長の経営日誌 田宮社長が好き勝手に織りなす独白です
  FILE No.722 2021.3.20  

「 怒涛の怪力 」

今年の年頭に限定出版された“怒涛(どとう)の怪力”ストロング小林さんの著書を拝読しました。

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 ストロング小林さんの一代記「怒涛の怪力伝説」
(直筆サイン入り!)
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 全盛期の勇姿を観た
かった!

今回の書籍、初回の限定販売では表紙に直筆サインが入る特典付きでしたが予定部数があっと言う間に完売してしまいました。その後急遽第二次募集がありこちらはなんとサインカード付き、これも欲しかったので再購入、さらに1月にDDT博多大会に遠征したら何故か売店に一冊だけ置いてあり(地元のプロレスショップが出張販売)勢いで?こちらも買った為、現在手元に三冊保有しております(笑)。

かつて国際プロレスの絶対エースとして世界の強豪を迎え撃ち、IWA世界ヘビー級王座の25回連続防衛(1971〜73年)に成功している小林さんですが、残念ながらまだプロレスに目覚めていなかった私はこの時代を知りません。
翌74年2月、小林さんは突如国際プロレスに辞表を提出してフリー宣言、ジャイアント馬場とアントニオ猪木への挑戦をぶち上げ、世間をあっと言わせました。 
日本にプロレス団体が三つしかなく新日本プロレスがテレビ朝日、全日本プロレスが日本テレビ、国際プロレスがTBSとそれぞれがゴールデンタイムで放映され凌ぎを削っていた戦国時代、それも今では考えられないほど団体間の壁が高かった時期にそのうちの一つの(元)エースが残る二つのエースに挑戦表明をやってのけたのですから大事件で一気に日本選手権の機運が高まりましたが、この背景には複雑な裏事情がありました。小林さんのプロレス人生は一見順風満帆に見えましたが実際には団体内での人間関係に悩み続けており、遂に退団を決意したところに情報をキャッチした新日本プロレスの“過激な仕掛け人”新間寿氏が日参、粘り強く交渉し口説き落とす事に成功したのです。

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 プロレス界を揺るがす大事件、国際プロレスのエースが突如フリー宣言し、BIへの挑戦表明
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 新日本入団後はナンバー
スリーとなるが徐々に
ランクダウン…

「いつ何時誰の挑戦でも受ける」
超大物日本人同士の試合は「首で全体重を支える」伝説のジャーマン・スープレックス・ホールド(原爆固め)で猪木さんが勝利、日本プロレス史に残る名勝負として今も語り継がれています。
惜敗した小林さんは半年間の渡米武者修行を経て帰国し再度猪木さんに挑戦12月12日に同じ蔵前で再戦が行われここでも猪木さんがグラウンド式卍固めで返り討ちにしました。翌75年になると小林さんは「内側から猪木を研究する」と新日本プロレスに正式入団を果たし、これでアントニオ猪木、坂口征二、ストロング小林の三本柱による盤石の体制が誕生、従ってちょうどこの年からプロレスを観始めた私にとって小林さんはあくまでナンバースリーのイメージでした。
しかも当初は猪木&坂口の黄金コンビが保持していた北米タッグ選手権が76年に坂口&小林組にスライドすると子供心に幻滅したものです(小林さんにあやまれ!苦笑)。
しかし新日本入団後の小林さんは藤波辰巳(現・辰爾)や長州力が台頭すると徐々に精彩を欠くようになり北米タッグも坂口&長州組へと移行、腰を負傷した事により81年10月の試合を最後に長期欠場に入りました。
82年が会場デビューの私とは完全に入れ違いとなりましたが、この休養中に映画「伊賀忍法帖」(82年12月公開)に金剛坊役で出演したのを機にストロング金剛に改名、本格的にタレント活動をスタートさせ、84年8月26日に福生市民体育館で引退式を行い二度と試合をする事のないままプロレス界を去って行ったのです。
因みに私は試合は観られなかったものの、記念すべき新日本プロレス初観戦の日(82年9月21日大阪)、小林さんが猪木VSラッシャー木村戦で国際軍に加勢する姿を目撃しています。

小林さんが引退したわずか一ヶ月後、長州力を筆頭とした大量選手離脱事件が発生、そし覚えている人は殆どいないと思いますが、この年の暮れ前後に週刊ファイトに復帰を示唆する小林さんのインタビューが掲載されました。
正式引退からわずか数カ月でのカムバックはあまりに節操ないと言われそうでしたが、旗揚げ直後の新日本に豊登が助っ人参戦したのと同じで戦力不足を補う為の期間限定のもの、インタビューでは具体的にいつからと明言こそしていなかったものの、もう話はついているかのような口ぶりで色めき立ったものです。
しかしこの話は年が明けても何ら進展する事なくいつの間にか立ち消えになり肩透かしでした。元々そんな話自体が無く、久々のプロレス紙のインタビューでのリップサービスだったのかもしれませんが、国際プロレス〜猪木戦の最も輝いていた時代をリアルタイムで経験出来ず、前述のように入れ違いで現役時代の試合をナマで観られなかった私としては残念でした。

テレビのバラエティや時代劇、刑事ドラマなどに出演されているのを観る度、芸能界での第二の人生で頑張っている姿を微笑ましく思っていましたが、月日が流れ時代は平成となり遂に夢が叶う日がやって来ました。
92年3月1日横浜アリーナでの新日本旗揚げ20周年記念興行で、今度こそストロング小林の一夜復活が実現したのです!
20周年記念スペシャルタッグマッチと銘打った10分1本勝負、いわゆるエキシビションマッチで、やはり二年前(90年)に引退していた坂口征二と組んでタイガー・ジェット・シン&上田馬之助組と戦う、往年の北米タッグ選手権の再現でしたが、腰が悪い事と長いブランクもあって小林さんは殆ど動けず大苦戦、試合はシンの暴走で反則決着(6分48秒)となりましたが、エキシビションながら生涯ただ一度、小林さんの試合をナマで観られて嬉しかったです。

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 怒涛の怪力伝説は不滅

現在80歳になられた小林さんは東京・青梅のご自宅で静かに余生を過ごされています。現役時代に痛めた腰と足が原因で寝たきりではあるもののそれ以外はすこぶる元気との事…直接お会い出来る機会は残念ながら無さそうですが、多くのプロレスファンに夢を与えて下さった事に心から感謝し、ご多幸を祈っています。

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