2月がスタート、極寒の毎日が続きますがそろそろ12月ネタをお届けしましょう。
そう言えば年末には毎年恒例、東京スポーツ社制定の「プロレス大賞」の発表がありました。
プロレス界の隆盛と発展の為、同社が1974年(昭和49年)に制定し、選考委員には同紙の記者&カメラマンだけでなく他誌の代表や評論家も加え現在まで続いている歴史と権威のある同賞、その発足当時は新日本プロレス、全日本プロレス、国際プロレスの三団体時代(当初女子は対象外)、特に新日本と全日本の確執が最も深い時でした。
そんな戦国時代のマット界での栄えある第1回の受賞者は
最優秀選手(MVP) アントニオ猪木
年間最高試合賞(ベストバウト) アントニオ猪木VSストロング小林
(3月19日蔵前)
最優秀タッグ 該当者なし
殊勲 該当者なし
敢闘 ストロング小林
技能 ジャンボ鶴田
新人 藤波辰巳
最高殊勲選手 ジャイアント馬場
昨年デビュー50周年を迎えた藤波さんが新人賞ですから感慨深いものがありますが、藤波さんは71年にデビューしていますので厳密には74年の時点で既に3年のキャリアがありました。
普通の会社なら3年経てば中堅社員ですし、それこそ芸能界ならデビュー年から大ヒットを飛ばす新人も珍しくありませんがそこがプロレスの難しいところ、ましてや当時は「プロレスラーは10年、1000試合やって一人前」等と揶揄された時代でしたからキャリア3年程度ではまだまだ半人前扱い、そこで新人賞もデビューから3年までが対象と言う規定が設けられました。正直時代錯誤とは思いますが(詳しくは後述)この規定は令和となった現在も有効です。
こうして見ると猪木さんのMVP、そして昭和版巌流島として未だ語り継がれる歴史的名勝負、小林戦でのベストバウトのダブル受賞は極めて順当と思いますが、馬場さんの最高殊勲選手と言うのはちょっと…勿論この年馬場さんは日本人として初めてNWA世界王者となる、それこそMVP級の大偉業を達成されていますし、今更47年も前の事にイチャモン付けるのも野暮ですが、最優秀選手とは別に最高殊勲選手って紛らわしいし、パッと聞いてどっちが上なのかわからないじゃないですか(苦笑)。
それならいっその事、BI仲良く揃ってMVPをダブル受賞!?それでは何の権威もないし(レコード大賞を二人にやるようなものだ)第一お二人が怒って辞退した事でしょう。
因みに猪木さんは74〜81年の間にMVPを6回も受賞しており、これは未だ抜かれていない大記録ですが(2位は天龍源一郎、武藤敬司、棚橋弘至、オカダ・カズチカが各4回)調べてみると猪木さんが受賞した年はたいてい馬場さん(2回)か鶴田さん(3回)が最高殊勲賞、逆に馬場さんがMVPの年(79年)は猪木さんが最高殊勲と、BI両方の顔を立てないといけない主催者側の気苦労がよくわかります。
しかしいかにも苦肉の策丸出しの最高殊勲選手賞はやはり不評だったようで、BI絶対エース時代が一段落し次世代(鶴田、天龍、藤波、長州)にバトンタッチされた83年を最後に廃止されました。
74年に話を戻すと、この年は暮れに猪木さんが「日本選手権を賭けて俺と戦え!」と馬場さんに内容証明付きで挑戦状を送付、当然ながら馬場さんは筋が通らないと黙殺しましたが、その直後に当事者及び両団体の主力選手が授与式で一堂に会する事となった為、それこそ一触即発でした。
この25年後に起こった安生洋二の前田日明襲撃ではないですが、事前に「猪木が馬場に殴りかかる!?破天荒な猪木なら目的の為に手段を選ばずそれぐらいやりかねない」と無責任な噂が流れていたそうで、主催者は夜も眠れぬ程の緊張だった事でしょう。
迎えた当日、会場には猪木・新日本陣営が先に到着、馬場さんは少し遅れてやって来ましたが、その周囲を選手たちがガードするように取り囲み、とても晴れやかな舞台とは思えぬ物々しさでした。注目はBIが揃って壇上に上がる表彰式でしたが、二人は目を合わせる事も無く辛うじて並んでの写真撮影には応じたものの、カメラマンの「握手をお願いします」のリクエストはそっぽを向いて無視していました。
パーティが始まっても新日本と全日本の選手たちは左右に別れ交流する事も殆ど無く、所用のある馬場さんは途中で退席、恐らくこんな場所からは一刻も早く退散したい心境だったのでしょう。
まさに現在とは隔世の感がありますが、BI冷戦対立から半世紀が過ぎた令和のプロレス大賞は果たして…。
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(次回へ続く) |
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