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社長の経営日誌

孤高の天才 社長の経営日誌 田宮社長が好き勝手に織りなす独白です
  FILE No.785 2022.6.4  

「 試合記録の謎(3) 」

(前回からの続き)

ところで、猪木さんの自伝に記されたペッパー・マーチンとのタイトル戦が、いつのどの試合であるかが気になりました。
前回紹介した試合記録(60周年版記録集から抜粋)によれば二人のシングルマッチは5試合実現、成績は猪木さんの0勝1敗4引き分けとなっていますが、実は50周年版には幻の試合が掲載されていました!!

1964年11月14日 オレゴン州ポートランド シビックオーデトリアム
北西部ヘビー級選手権試合 60分3本勝負
(王者)ペッパー・マーチン (2-1) (挑戦者)ミスター・カジモト
  1本目 マーチン (20分13秒 体固め)
  2本目 カジモト (7分20秒 体固め)
  3本目 マーチン (5分45秒 リングアウト)
1965年4月30日 オレゴン州ポートランド シビックオーデトリアム
ミスター・カジモト (引き分け) ペッパー・マーチン

50周年版に載っているこの2試合が、60周年版では消滅しているのです!
因みに60周年版では64年11月14日は試合なし、そして65年4月30日は相手と会場が違い、猪木さんはその日はオレゴン州ポートランドアーモリーでリッキー・ハンターに負けた事になっています。
自伝には猪木の反則負けとあり結果は微妙に違うものの、私は当初この11月14日の試合こそが自伝のそれと思っていました。この試合だけがタイトル戦、しかも○分○秒とタイムまで記載されていたからです。しかし冷静に考えれば昔の海外の試合でそこまで細かく書かれている事自体嘘臭い(笑)。どうやら当時の雑誌か新聞のファンタジー記事が独り歩きしたのでしょう(苦笑)。
Gスピの小泉悦次氏の連載に「手元の大阪スポーツによれば11月27日の試合は北西部ヘビー級選手権である」の一文を見つけましたが、他の試合にもタイトルが懸かっていた可能性もあり、自伝の試合を特定する事は出来ませんでした。

マーチンは1965年と1970年の二度来日しており、初来日時はまだ猪木さんが渡米中でしたが二度目の時に再会が実現、折角なのでこの時の両者の絡みも調べてみました。因みに流石日本の記録は正確で、50周年版と60周年版で全く違いがありませんでした。

1970年
2月28日 三重・伊勢市三重県体育館
60分3本勝負
ジャイアント馬場 1−0 フリッツ・フォン・エリック
アントニオ猪木     ペッパー・マーチン
大木金太郎       ジム・オズボーン
 1本目 (17分21秒 両軍リングアウト)
 3本目  馬場 (10分50秒 片エビ固め) マーチン
3月4日 静岡・駿府会館
60分3本勝負
アントニオ猪木 1−0 フリッツ・フォン・エリック
大木金太郎      ペッパー・マーチン
 1本目 (17分16秒 両軍リングアウト)
 3本目 猪木 (4分28秒 体固め) マーチン
3月6日 横浜文化体育館
30分1本勝負
アントニオ猪木(14分19秒 アバラ折り)ペッパー・マーチン
3月13日 後楽園ホール
60分3本勝負
アントニオ猪木 2−1 プリンス・イヤウケア
吉村道明       ペッパー・マーチン
 1本目 吉村  (13分20秒 エビ固め) マーチン
 2本目 外人組 (12分36秒 反則勝ち)
 3本目 猪木  (2分16秒 体固め) イヤウケア
ヘビー級バトルロイヤル(時間無制限1本勝負)(10人参加)
 大木金太郎 (6分32秒 背骨折り) ペッパー・マーチン

後楽園のバトルロイヤルで決勝まで残ったものの大木の前に敗退、恐らくこれには猪木さんも出場していたはずで、これが両者の最後の絡みとなりました…。

(次回へ続く)
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