(前回からの続き)
フリッツ・フォン・エリックやキング・カーチス・イヤウケアが一緒でしたからあくまで二番手、三番手の扱いだったのでしょうが、日本プロレス時代のマッチメイクをチェックするとペッパー・マーチンの不振ぶりが目につきます。
試合映像が無くリアルで観た人ももう少数でしょうが、その貴重な目撃者の一人である小泉悦次氏はGスピで「再来日時に写真と実物の乖離を感じた。聞けば病気で顔も身体もむくんだと言う。」と証言しています。
70年3月6日には横浜で実に5年ぶりとなる猪木さんとのシングルが実現もコブラツイストの前に完敗(14分19秒)、小泉氏曰く「猪木のワンサイドに近かった」。
この時マーチンは33歳、プロレスラーとしてはまだまだこれから円熟期のはずでしたが前述のように病み上がりでコンディション不良、一方27歳になったばかりの猪木さんは馬場さんとともに日本プロレスの大エースですからその差は歴然だった事でしょう。
す、凄い、記録の再現にページを費やした事もありますが(いい回数稼ぎになった 笑)気が付けば映像ですら一度も観た事が無いペッパー・マーチンの話題で4回も書いてしまいました。マニアック過ぎるネタで読者の皆様、さぞ退屈だった事でしょう(いつもの事か 笑)。
今回、マーチンの事を調べていて後に俳優業もこなし、映画「スーパーマン2 冒険篇」(日本では81年公開)に出演されていた事を知って驚きました。
何故なら私、当時この作品を劇場で鑑賞していたからです!
1作目の「スーパーマン」(日本で79年公開)は観ていないのに(後にテレビ鑑賞)わざわざ出かけていったのは、その頃はプロレスよりもウルトラシリーズ(&特撮)にどっぷりはまっていて、アメリカの特撮作品をこの目で観たかったからです。
先程映像ですら観た事ない、と書きましたが(試合ではないものの)ペッパー・マーチンを観ていたのですね〜、40年過ぎて知る驚愕の(大袈裟!)事実です(笑)。
因みにマーチンは、クリストファー・リーブ演じる主人公、クラーク・ケントに喧嘩を吹っ掛ける悪役で出演されていたらしいのですが、そんなシーンがあったかすら覚えていない (苦笑)、また、テレビで何度か観た事がある75年の映画「大空港」にも出演されていた事が判明しましたので、両作品とも次回観る機会には目を皿にしてチェックします。
それにしてもかつての、それも修行時代の好敵手がまた一人天に召され、猪木さんの胸中に飛来したものは何だったのでしょうか…。
最後になりましたが、改めてペッパー・マーチンさんのご冥福を心よりお祈り致します。
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