このブログの更新日の4日後は2月20日、そう、国民の祝日にしても良い(笑)アントニオ猪木の誕生日です!
1943年生まれの猪木さんは遂に古希の70歳、まさしく世界一元気な70歳ですね〜。
小学生時代、猪木さんとモハメド・アリが戦った世紀の一戦(FILE No.177「格闘技世界一」参照)をリアルタイムで目撃した当時の私に70歳のアントニオ猪木など想像できるはずもありませんでしたが、あの時猪木さんは33歳だったのですから私も歳をとるはずです(涙)。
…というわけで「燃える闘魂」の古希を祝って今週もプロレスネタ、これまでも全国のプロレス会場を紹介して来ましたが、今回はいよいよ西のメッカ、我が地元・大阪を代表する名アリーナ、大阪府立体育会館の登場です!
現在はBB-SPORTS社さんに命名権を売却した為、ボディメーカーコロシアムと名称変更されていますが、やはり私は大阪府立−という方がピンと来るし愛着があります。
1月26日、同会場にてプロレスリング・ノアがビッグマッチを開催、四国銀行の有光支店長とともに観戦に行って来ました。
私がこの会場に初めて来たのは忘れもしない1982年9月21日、記念すべき新日本プロレス初観戦の日でした。
メインはアントニオ猪木とラッシャー木村のヘアベンドマッチ(敗者髪切りマッチ)、負けた木村が髪を切らずに逃亡、客席は不穏なムードになり遂には暴動が起こりました。
まさか記念すべき初観戦で暴動が起こるとはねえ…、昭和のファン、特に大阪のファンは阪神ファンを見てもわかるようにキ○ガ○が多かったのです(笑)。
この日以来30年、果たしてどれぐらいの回数、ここへ足を運んだ事でしょう?
東京に住んでいた時代もあるし、近年こそせいぜい年に数度のペースになったものの、恐らく200回ぐらいは来ているかもしれません。
現在の体育館は老朽化により1985年から全面改修工事に入り1987年に新装オープンされたもので、私が通いだした初期の旧・大阪府立は今覚えば随分と古めかしい会場でした。
相撲会場なので天井から屋根が吊るされていて(現在の両国国技館と同様)、何とも言えぬ独特の雰囲気を醸し出していたものです。
新装された時かなりオシャレになったと感じたものですが、もうそれから4分の1世紀も経つのですね…。
そして旧・体育館で忘れられないのは冷房設備がなかった事で夏の興行時は館内がまさしく蒸し風呂、サウナ状態!
とにかく目眩がするぐらいの暑さでした。
ジャイアント馬場は日本プロレス時代の昭和45年7月にこの会場で戦ったドリー・ファンク・ジュニア戦が「人生で一番しんどかった試合」と語っていました。
超満員の観客で埋まった会場内の室温は何と37℃! しかもリングの上はテレビのライトで照らされる為40℃近くにもなっていたというから恐ろしい話です。
試合は60分三本勝負で行われ1−1となった段階で既に45分を経過する長期戦、60分時間切れか?と思われたものの流石にスタミナの塊のような両雄にとってもこの日の暑さは想定外だったようであと数分でフルタイムというところで場外で二人とも動けなくなり両者リングアウト、馬場は脱水症状寸前で控え室の風呂場でひっくりかえって暫くのびていたそうです。
さて、この日のノアはGHC三大タイトル戦でクォリティの高い試合を展開、浪速のファンを満足させてくれましたが私が嬉しかったのは、昨年取り上げたロス・フォン・エリック&マーシャル・フォン・エリックの兄弟が前座試合に出場していた事です。(FILE No.265,266「鉄の爪一家の悲劇」参照)
偉大な名レスラーながら悲劇の一家と言われた鉄の爪こと故・フリッツ・フォン・エリックのお孫さんがこうして日本でデビューして頑張っているのですから感慨無量です。 血筋の良さを発揮した二人はしっかりと鉄の爪、アイアンクローまで繰り出し私と有光支店長他、館内のごく少数の昭和ファンは大喜びでした(笑)。
リーマン・ショックの直前である2008年4月、当時大阪の知事だった橋下徹氏の行政改革の一環として大阪府立体育会館の廃止・売却案が発表されて仰天しました。
黒字で稼働率も良いのに一体何考えてんだ(怒)!
しかも昨年3月、橋下氏はちゃっかり大相撲の大阪場所を観戦、個人的に橋下氏は嫌いじゃないものの何かポリシーが無いようで呆れてしまいました。
その後、この廃止案は立ち消えになったようでほっとしていますが、相撲を一度も観た事がない私にとって大阪府立体育会館は(両国国技館もそうですが)プロレス会場以外の何物でもなし、これからも数々の名勝負の舞台となって欲しいものです。
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