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社長の経営日誌

孤高の天才 社長の経営日誌社長の経営日誌 田宮社長が好き勝手に織りなす独白です

FILE No.362

2014.2.15
「 新宿伊勢丹前事件(6) 」

加熱する大阪の百貨店戦争、特にここ数年、大阪駅周辺は昔とすっかり様相が一変し私のような田舎者は戸惑うばかりなり、そんななか先月、三年前に出店した三越伊勢丹が規模の縮小、事実上のギブアップを宣言しました。
伊勢丹と言えば真っ先に思い出すのが(かなり強引だな 笑)1973年(昭和48年)11月5日夕刻、新宿の伊勢丹百貨店の正面玄関前で起こった衝撃の事件です。
アントニオ猪木と倍賞美津子夫人(当時)、猪木の弟、啓介氏がショッピングを終えて出てきたところをこのブログのタイトルを飾っている「インドの猛虎」タイガー・ジェット・シンとビル・ホワイト、ジャック・ルージョーの三人の外国人プロレスラーと偶然?はち合わせ、シンら三人は一斉に猪木に襲いかかりガードレールや停車中のタクシーにぶつけるなど文字通りの袋叩き、猪木は流血し通報によりパトカーが2台も駆けつける大騒動となりました。これが俗に言う「新宿伊勢丹前事件」です。
興行の目玉である外人選手を欠かすわけにはいかず猪木は被害届の提出を断念、プロレスラーらしくリング上での決着に持ち込みました。

果たしてこの事件は本当に偶然のハプニングだったのか? それと興行を盛り上げる為の演出だったのか?
事件から40年の歳月が流れた今も諸説あるミステリアスなこの事件を二年前に当事者たちの様々な証言を交えながら検証しました。
(FILE No.247251「新宿伊勢丹前事件」参照) 読者の皆様にはそれらをもう一度読み返し本稿に戻って来て欲しいですが、この時には中途半端に終わってしまったビル・ホワイトの証言を今回は特集します。
タイガー・ジェット・シンとともに事件の実行犯の一人であるビル・ホワイトは2004年、つまり事件から31年後に日本から来たレポーターのインタビューに答え口を開きました。
二年前の特集時にもホワイトの証言は少しだけ掲載しましたが、インタビューが載った雑誌を発見できなかったので記憶のみに頼った中途半端なものになってしまい忸怩たるものがありました。
正月休みに実家に帰った時、部屋を整理して遂に問題の雑誌、週刊ゴング

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 遂に発見! 週刊ゴング
2004年6月9日号

2004年6月9日号を発掘に成功! いや〜、見つかった時は感動してしまいましたよ(笑)。
ずっと2005年とばかり思い込んでいたのですが、これは私の勘違いでちょうど今から10年前の号だったのです。
今回はホワイトの独白を完全ノーカットで再現、手抜きと言うなかれ、貴重な証言を後世に伝えるのが検証を始めた者の使命だと思いますので…。

インタビュー記事は日本からやって来たレポーターが、アラバマ州モービルにあるW・リユニオンで行われたレスラーOBのイベントに参加したホワイトを取材した形で構成されています。

       ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

(初めまして。 ホワイト選手に会えたらどうしても一度じっくりと話を聞いてみたかったのが、31年前に東京の新宿のデパート前でタイガー・ジェット・シンがアントニオ猪木さんを襲った事件に関する真相なんですけど…。)
「私自身、いつかはあの事件の真相を話す時が来ると密かに思っていたよ。
日本から来たレポーターが私にインタビューをしたがっている、という話を耳にしたからこの問題の事を聞かれる事は覚悟していたよ。 もう今更隠しても仕方ないから私の知っている限りの事は話すよ…。」
(最初からズバリ! 問題の核心に入らせてもらいますが、当時からこの襲撃事件に関しては、関係者が仕組んだヤラセではないかと言われていましたよね。つまり、猪木VSシンの因縁を盛り上げる為の演出という意味ですよね。)

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 31年ぶり、ビル・ホワイトの独占インタビューを特集

「その説は半分当たっている面もあるけど、残りの半分は外れているね。
当時、タイガー(ジェット・シン)は自分の知名度を日本でいかにアップさせたらいいかという事を真剣に考えていたよね。私はあの時のツアー(来日)で初めてタイガーと知り合ったんだが、あんなに自分のビジネスを真剣に考える男にはそれまで会った事がなかったね。」
(当時、シンがそれほど真剣に日本における自分の知名度のアップを考えていた最大の要因は何だったんですかね?)
「オールジャパン(全日本プロレス)とのレスリング・ウォー(企業戦争)の事は、あの頃からアメリカのレスラー達の間でも評判になっていただけに、ニュージャパン(新日本プロレス)の常連選手になりつつあったタイガーとしては負けたくなかったんだろうね。」
(その頃からシンはライバル団体だった全日本プロレスに対して対抗意識を持っていたんですね。)
「その通り。特にオールジャパンのトップ選手だった(アブドーラ・ザ)ブッチャーに対しては物凄い競争意識を燃やしていたね。「絶対に俺の力でニュージャパンをナンバーワンの団体にしてブッチャーとの人気に差をつける」って公言していたからね。
(シンはこの年(昭和48年)5月に初来日してこの時は二度目の来日だったんですよね。)
「シンはこの時のシリーズでは猪木との一騎打ちで何とか自分の存在感をもっと強烈にアピールしたかったみたいだったな。もっともっとお客さんをエキサイトさせる為のアイディアをね…。」
(それが猪木さんの襲撃につながったんですよね。)
「いや、その前に会場に来ていたお客さんを殴る、という暴挙に出たよね。
私の記憶に間違いがなかったらタイガーはアリーナの客を何かの拍子に突き飛ばした事があったはずだ。それも日本のマフィア(ヤクザ)関係の人だったみたいだけど、そういう話を聞いてもタイガーは全く怖がる事はなかったね。
あの時、タイガーの持つ潜在的な怖さに会場全体が凍りついたような雰囲気だったね。恐らくあの光景を見たファンはタイガーに本物の狂気を感じたと思うよ。」
(そうした反応に対してシン自身はどう捉えていたんですかね?)
「まあ、タイガーはある面で自意識過剰な男だったから完全にその状況に酔っていたし、そこまで割り切れた事で「もう日本で怖いものはない」みたいな事も言い出していたよね。」
(あの当時のシンは本当にファンからも、取材する記者たちからも恐れられていましたからね。)
「それはそばにいる私たちも感じていたね。各会場に集まったファンの人たちも第一試合から、いつシンがサーベルを振りかざして飛び出してくるかわからない恐怖に駆られていた感じだったね。 何時猪木がシンに襲われてもおかしくない状況が出来ていたからね。」

(次回へつづく)
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