このブログの更新日よりいよいよ私は日本から見れば地球の裏側、ブラジルの視察に向けて出発致します。果たして無事に帰って来られるかどうか(28日帰国予定)皆さん、時々は地面に向かって呼びかけて下さい(笑)。
3月の事でしたが「人間風車」こと、ビル・ロビンソン死去のニュースはショックでした。
一般紙でも報道され、産経新聞など社説にまで取り上げていて、改めてその知名度の高さを再認識したものです。
…と言っても若い人は知らないでしょうねえ、中には「人間風車」と聞いて風力発電の開発者と勘違いした人もいたとか(苦笑)。
1938年9月、イギリス・マンチェスターで生まれたビル・ロビンソン(本名ウィリアム・アルフレッド・ロビンソン)は15歳の時にウィガンにあったビリー・ライレーのジムに入門しました。
ビリー・ライレーは1900年前後に活躍したレスラーで、ロビンソンの入門時は既に60代にさしかかっていましたが、かつて触れたように(FILE No.185参照)このビリー・ライレー・ジムからは多くの実力派レスラーが排出されました。
「ビリー・ライレーが活躍した1900年以前から1920年代頃までのプロレスは、今のプロレスとは全く違う純粋な闘いだった。
試合は当然、プロモーターの意思が介在する事はなく、勝つか負けるか、今で言うところの完全なシュートだった。さらに当時は時間制限も無いルールも多く時には勝負の決着がつくまでに2〜3時間にも及んだ。(中略)そんなシュート・レスリング全盛時代からの技術と精神を受け継いでいた最強のジムがビリー・ライレー・ジムであったと言えるだろう。」(ビル・ロビンソンの自伝より)
やがてビリー・ライレー・ジムは、スネークピット(蛇の穴)と呼ばれる伝説的な存在として語り継がれるようになり、そこで徹底的に鍛えられたロビンソンはアマチュアのタイトルを総ナメして19歳でプロ・デビュー、記念すべき初来日は1968年(昭和43年)4月、国際プロレスのリングでした。
この時日本のファンはロビンソンの代名詞となる必殺技、ダブルアーム・スープレックスを目撃する事になったのです。
日本のマスコミはこの技を「人間風車」と命名、この名前はそのままロビンソンのニックネームとしても定着しました。
プロレスラーは数多くいれど、必殺技の名称がそのままニックネームになったのは、このロビンソンの人間風車とフリッツ・フォン・エリックの鉄の爪ぐらいでしょう。
ここに近年、オカダ・カズチカのレインメーカーが加わり栄えある第3号となりました。
国際プロレス時代、即ち全盛期のロビンソンの勇姿を見られなかったのが私にとっては無念(映像すら残っていない)、前述の人間風車も含めその洗練されたファイトはかなり衝撃的だった事でしょう。
当時のプロレスは日本人vs外人の国際試合が主流で、テレビを観ているお爺ちゃんやお婆ちゃんは強い日本人が悪役外人を倒すシーンを期待しており、その意味で国際プロレスの誤算はあまりにもロビンソンが強すぎた事でした。
しかもロビンソンの場合は全く反則をしないクリーンファイトで、当時の国際プロレスの主力である豊登、サンダー杉山、グレート草津(いずれも故人)らを倒してしまうのですからお茶の間のファンのストレスは溜まる一方、苦肉の策で国際プロレスの首脳はロビンソンを日本陣営に引き入れ、日本人選手とタッグを組ませ外人選手を迎え撃つようにしました。日本のプロレス界初の外国人エースの誕生です。
後にミル・マスカラスやザ・デストロイヤー、ザ・ファンクスらが日本陣営に入り人気を博す時代が来ますが、ロビンソンはその走りだったのです。
1975年(昭和50年)、ロビンソンは新日本プロレスに初参戦、ファン待望の超ドリームマッチ、アントニオ猪木戦が遂に実現する運びとなりました。
12月11日蔵前国技館、猪木さんが保持していたNWFヘビー級選手権試合として行われた60分3本勝負、私にとってこの試合こそ永遠のベストバウト(最高試合)です。
私はちょうどこの年からプロレスを見始めましたので、ギリギリ間に合いこの試合をリアルタイムでテレビ観戦する事ができ、本当に感謝しています。
これは後年知った事ですがこの試合のシチュエーションも最高でした。
実はこの年は力道山の13回忌、そこで百田家(力道山の遺族)は全日本プロレス、国際プロレスの協力を得てこの12月11日、日本武道館で追善興行を開催する事になりました。
当然新日本プロレスにも出場要請がありましたが、同日に蔵前でのロビンソン戦が内定していた猪木さんはこのオファーを断ったのです。
「師匠の追善試合なのだから、弟子ならばここは自分のところの興行をキャンセルしてでも出場するべきじゃないのか!」と百田家の後見人は激怒、「あいつ(猪木)は恩知らずの 薄情者だ。」と罵り、猪木さんは百田家から「今後、力道山の弟子を名乗って欲しくありません。」と破門を言い渡されてしまいました(*後に東京スポーツが間に入って和解が成立)。
しかし、この時の猪木さんのコメントが実にかっこ良かった!
「誰が何と言おうと私はあくまでも力道山の弟子だ。名勝負をファンに提供する事が、先生への最大の供養だと信じている。」と言い切ったのです。
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(次回へつづく) |
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