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社長の経営日誌

孤高の天才 社長の経営日誌社長の経営日誌 田宮社長が好き勝手に織りなす独白です

FILE No.372

2014.4.26
「 人間風車よ永遠に…(2) 」

(前回からの続き)
1975年(昭和50年)12月11日、空前の同日興行戦争が実現しました。
百田家主催の「力道山十三回忌追善特別大試合」が行われた日本武道館は全面協力したジャイアント馬場の政治力により、ドリー・ファンク・ジュニア、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ザ・デストロイヤーらアメリカマット界の超大物選手が大挙出場の豪華な布陣、一方、新日本プロレスの蔵前国技館はアントニオ猪木vsビル・ロビンソンの一枚看板のみでの勝負です。
「自分の信念に基づいて試合で親父(力道山)の供養をする」という戦前の猪木さんの言葉通り、この日の猪木−ロビンソン戦は伝説的に未だ語られるほどの究極の名勝負となりました。

1本目、両者はクラシカルなレスリングの攻防を延々と続けます。
派手な大技は全く出ずもつれて二人同時に場外に転落するシーンは一度あるものの、場外戦を繰り広げる事もなくすかさずリングに帰り、またしても地味なグランドの攻防に戻ります。

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 感動の名勝負となった
猪木戦、人間風車が爆発!
(週刊プロレスより)

20分、そして30分と時間が経過し長期戦の様相、今もしこんな地味な試合を長々とやれば観客から野次とブーイングが飛ぶでしょうが、二人の技術は見る者の目をリングに引きつけて放しません。
そして遂に40分過ぎ、ロビンソンは猪木さんの一瞬のすきを突いて逆さ押さえ込みで3カウントを奪取、42分53秒、挑戦者ロビンソンが一本を先取しました。
2本目のスタート、先制された王者・猪木さんは積極果敢に攻め込むも決定打がありません。このまま時間切れになれば1−0でロビンソンの勝利となります。
遂に試合時間は55分を超え、館内からは焦りの声が上がりました。
ややスタミナ切れのロビンソンは無理をせず、猪木さんが組もうとするとロープに逃げて時間切れを狙う作戦にスイッチ、猪木さんが怒りを爆発させます。
リングアナがマイクで「残り試合時間2分」を告げ、館内の悲鳴が一段と大きくなる中、ロビンソンのロープワークからのエルボーをかわした猪木さんはスルスルッとまるで蛸のようにロビンソンの身体に絡みつきました。
最大の必殺技、オクトパス・ホールドこと、卍固めが遂に決まったのです!
必死にロープに逃げようとするロビンソンですが、卍はガッチリ決まっており、ぴくりとも動けません。残り試合時間は1分、耐え切れば勝てるロビンソンは必死に我慢したものの遂にギブアップ、16分19秒、土壇場で猪木さんがタイに持ち込みました。
あまりの劇的なフィニッシュに館内は大爆発、お祭り騒ぎとなりました。
決勝ラウンドとなる3本目のゴングが鳴ったもののこの時点で残り時間はわずか48秒、それでも両者は最後まで勝負を捨てず、猪木さんがドロップキックを連発して追い込めばロビンソンもエルボーで反撃、ここでタイムアップのゴングが鳴り試合はドロー(王者・猪木のタイトル防衛)となりましたが深い感動に酔いしれた観衆は両雄に拍手を送り続けました…。

ロビンソン追悼の意味を込めて今回久しぶりにDVDを見直しましたが、39年前の感動が蘇えって来ました。
時間切れ寸前で卍固めが決まったシーンは今見ても泣けます(涙)。

究極の名勝負となった二人の初対決、当然翌年の再戦が期待されたのですが、ロビンソンの新日本参戦はこの1回のみで終わってしまいました。
ギャランティの問題で揉めてしまい、ロビンソンは翌76年から全日本プロレスに移籍してしまったからです。
猪木−ロビンソン戦のわずか半年後に今度は馬場vsロビンソンが実現、奇しくもこの試合も今年初め、スカパー!でオンエアされたのでじっくりと見ました。
何とここでロビンソンは2−1で馬場さんに完全フォール負け、当時、新日本ファンに大ヒンシュクを買う結果となったのでした(苦笑)。
その後もロビンソンは85年に現役を引退するまで全日本のレギュラー外人として来日し続けましたが、長年の現役生活による怪我や太り過ぎから急速にコンディション不良となり、往年の切れ味が無くなってしまったのは残念でした。

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 ロビンソンのテーマ曲「ブルー・アイド・ソウル」日本での発売時のタイトルは「人間風車」

尚、この全日本時代にロビンソンに与えられた入場テーマはシェーン・ダグラスが演奏する「ブルー・アイド・ソウル」という曲で、3月中の私は毎日、この名曲のメロディが頭から離れませんでした。
この曲がロビンソンのテーマとしてレコード化された時はタイトルが「人間風車」となっており(写真参照)、ロビンソンは必殺技、ニックネーム、テーマ曲が全て同じ名称という珍記録?を樹立したのです(これも近年、オカダ・カズチカのレインメーカーが並びました)。

あまり知られていない話ですが、83年に新日本プロレスが世界を統一する大イベント、IWGPを開催した時、ロビンソンから「俺を欧州代表として出場させろ」と売り込みがあったそうです。その時の新日本の返答が「糞でも喰らえ」だったとか(笑)。
ダブルクロスして全日本に走り馬場さんに負ける醜態を晒した事をよほど根に持っていたのでしょうね(笑)。

時は流れ2002年、新日本プロレスが30周年記念大会を東京ドームで行った時、猪木vsロビンソンが30年のベストバウトに選出され二人はリング上で再会、表彰されました。
本当は何度でも戦って欲しかった両雄、しかし結果論ですがあの試合はたった一度きりだったからこそ、ここまでの伝説になったのかもしれません。
翌年以降再戦が実現していても(よほど早い時期ならともかく)恐らく初対決以上の試合にはならなかったのでは、と思えます。 前述のようにその後のロビンソンは急速に衰えが目立ち出しましたし、猪木さんも翌76年からのモハメッド・アリ戦を頂点とする異種格闘技戦を経験し、ファイトスタイルが変わっていったからです。
75年12月の最初で最後の対決は、両者が心身ともに絶好調でストロングスタイルのレスリングで競い合える、ぎりぎりのタイミングでまさに運命的に実現したのです。

現役引退後、ガードマンをしながら生活していたロビンソンの元に99年暮れ、日本から一本の国際電話が入りました。
それはUWFを経て後のUWFインターナショナルで活躍した元レスラー、宮戸優光氏からのもので、日本でロビンソンをヘッドコーチとしたレスリングのジムをスタートしたいというオファーでした。
余談ですが、この宮戸氏は小学校6年生の時に蔵前で猪木−ロビンソンを観戦、その衝撃にプロレスラーを志すようになったそうです。あの試合が一人の少年の人生を決めてしまったわけでこれもまた運命と言えるでしょう。

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 高円寺にある日本版・
蛇の穴、スネークピット
ジャパン

宮戸氏の要請にロビンソンは二つ返事でOK、こうして、かつて15歳の時のロビンソンが入門した「蛇の穴」の日本版、その名もUWFスネークピットジャパン(FILE No.315参照)が誕生しました。
心の底からレスリングを愛し、自分の知っているレスリングを次世代に残して将来本当のプロレスを復活させて欲しいと言う思いがロビンソンを動かし、それから彼は通算7年間近くも杉並区高円寺の住人となり、レスラーの育成に従事する事になったのです。

「プロレスはあまりにもショー的な方向へ進みすぎた。
今や日本ではプロレスと言うとショーや八百長と言う言葉と同義語のように使われていると宮戸から聞き、私は憤慨した。
本当のプロレスとはそんなものではない。ショー・レスラーは断じてプロレスラーではないのだ!
現在のWWEをはじめとしたプロレスはもうプロレスとは呼びたくない。
私自身現役時代の晩年、確かにショー化の進んだアメリカを主戦場としていたが、私が思う理想の本当のプロレスとは、私が始めた60年代とそれ以前の完全シュート時代を含めた欧州のプロレスである。
プロレスリングはかつて最強にして、最も美しい格闘技であったと私は信じている。
私の弟子たちに今から100年ほど前に実際に行われていたオールドスタイルの本当に強いプロレスリングを復活させてもらいたい。」

UWFスネークピットジャパンでロビンソンの指導を受けた選手たちの何人かはプロ・デビューを果たしていますが、ロビンソンはこの3月末には久しぶりに来日し、レスリングの指導やイベントを行う予定でした。
来日直前に届いた突然の悲報、しかし人間風車は天国のリングで永遠に回り続け、自身の遺伝子を継ぐ強いプロレスリングの復興をじっと見守ってくれていると信じています。

※ 次回更新は5月10日(土曜日)となります。

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