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社長の経営日誌

孤高の天才 社長の経営日誌 田宮社長が好き勝手に織りなす独白です
 FILE No.430 2015.7.4

「 青い目の日本人 」

〜不沈艦スタン・ハンセン来日記念〜

先月の15日、プロレスリング・ノアの「三沢光晴メモリアルツアー2015」大阪大会を観戦しました。
この日は月曜日にも関わらず観客の入りは上々で、会場の一角に設けられた献花台の前で手を合わせてから着席しました。
絶対忘れられないあの日(2009年6月13日)から早いものでもう6年の月日が流れましたが、試合途中で行われた追悼セレモニーで10カウントのゴングの音色を聞きながら、三沢選手の勇姿がプロレスファンの心の中で永遠に生き続けている事を感じました…。
プロレスリング・ノア大阪大会はこちらをクリック

ところで、このメモリアルツアーには超大物がゲストとして帯同していました。
「不沈艦」ことスタン・ハンセンが久々の来日(不沈艦だけに来航!?)を果たしたのです!
第一試合前、館内に流れるテーマ曲「サンライズ」、メチャクチャにテンションが上がる瞬間ですが、以前ダウンタウンの番組でテレビでBGMとしてよく使われる曲のランキングが発表され栄えある第1位に輝いたのが何とこの曲でした。 そう言えば確かにバラエティの乱闘シーンなどでよく使われています。
ハンセン・コールの中、颯爽と姿を現したハンセン、かつての「不沈艦」も現役時代の荒々しいイメージはすっかり影を潜めダンディな好々爺そのもの、リングインすると同時にお馴染みの右手でテキサス・ロングホーンを作っての「ウイーッ!」(本当はユースと言っているのです)の雄叫び、懐かしさで胸が熱くなりました。

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お馴染みのポーズでスタン・ハンセンが来日!


ハンセンはテリー・ファンクのスカウトでプロレス入り、テキサス州アマリロのファンク道場で修行を積んで1973年1月1日にデビューしました。

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 初来日時のハンセン、
大先輩のザ・デストロイヤーの胸を借りる…

初来日は1975年9月、全日本プロレスのリングでしたが、まだキャリア3年半の一介の若手(当時26歳)に過ぎず、パワーは人並み外れているものの不器用で、この時は後に日本のプロレス史に名を残す名選手になるとは誰も想像しなかった事でしょう。

翌76年、ニューヨークのマット(現在のWWE)に登場したハンセンは当時のチャンピオンであるブルーノ・サンマルチノと対戦するチャンスをつかみ、あまりにも有名な「首折り事件」を引き起こします。
ハンセンの必殺技、ウエスタン・ラリアットをまともに食らった王者サンマルチノが頚椎捻挫により病院送りとなった伝説的な一戦ですが、今日(こんにち)では実はハンセンがボディスラムに失敗し、抱え上げたサンマルチノを首から変な角度で落としてしまった事によるアクシデントであった事は広く知れ渡っています。
当時のハンセンがいかに下手くそで不器用なレスラーだったかを如実に表すエピソードですが、アクシデントをも商売に結びつけるのがプロレス界の面白いところでラリアットで首を負傷したサンマルチノは病院のベッドから復讐を宣言、わずか数ヶ月でカムバックを強行しサンマルチノvsハンセンの遺恨試合はその後半年間に渡ってニューヨークを盛り上げました。

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 猪木との試合でハンセンの素質が一気に開花

「首折り男」として名を上げたハンセンは77年から新日本プロレスに参加するようになりました。
ここで日本における最初のライバル、アントニオ猪木と出会った事がハンセンの運命を大きく変える事になります。
ゴングが鳴ると同時に猛スピードで突進し、一切間をとらずパワー全開で攻めまくるハンセンの妥協なき攻撃を猪木が正面から受け止める事により、ハンセンの秘めた潜在能力が一気に開花、猪木vsハンセンの試合は新日本マットの黄金カードとなり、ハンセン人気はうなぎ登りとなりました。

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 新日本時代、ウエスタン・ラリアットの洗礼を最も受けたのは長州力

この頃、古舘伊知郎アナがハンセンにつけた呼び名は「ブレーキの壊れたダンプカー」…それまでヒール(悪役)と言えばアブドーラ・ザ・ブッチャー、タイガー・ジェット・シンに代表されるように凶器攻撃による反則や流血戦が売り物でしたが、ハンセンの武器はあくまでその肉体、新時代のヒール像を確立したハンセンは日本マットにおけるナンバーワン外国人の地位を不動のものとしていったのです。

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 ウエスタン・ラリアットは世界中で流行

人気・実力とも絶頂期のハンセンに転機が訪れたのは1981年の事でした。
この年、新日本プロレスと全日本プロレスの間で外国人選手の引き抜き戦争が勃発、当然新日本のエース外国人であるハンセンも渦中の人となりました。
先に仕掛けた新日本が全日本のドル箱だったブッチャーを獲得すれば馬場・全日本は報復にタイガー・ジェット・シンを抜き返し、最大の大物であるハンセンにも食指を伸ばしました。
ハンセンの師匠的存在であるドリーとテリーのザ・ファンクスが全日本のブッカーをやっていた関係でこの引き抜き交渉はあっさり成立、長い日本マットの歴史の中でも最大級のインパクトの移籍劇が実現したのです。
しかしこの時、ファンやマスコミの一部は全日本でのハンセンを不安視していました。
ハンセンの良さはストロング・スタイルを標榜し、当時過激なプロレスと言われていた新日本のリングでこそ発揮されるものであり、アメリカン・スタイルの全日本ではハンセンの持ち味は死んでしまうだろうと見られていたのです。
恐らくその不安はハンセン自身が最も感じていた事でしょう。
「確かにオールジャパン(全日本)の試合はニュージャパン(新日本)とは全く違う。 ニュージャパンはヨーロピアン(欧州)スタイルとマーシャル・アーツ(格闘技)をミックスさせた独特のスタイルだ。それに対しオールジャパンはNWAスタイル、わかりやすく言うとハーリー・レイススタイルだ。
私は移籍交渉の席で馬場に対し、「私にNWAスタイルを要求するのか?」とはっきりと聞いた。 馬場は即答で「違う。君が今、ニュージャパンでやっている試合をそのまま持ち込んでくれ。私はそれが必要だから君をスカウトするのだ。」と言った。
驚いたが同時に嬉しかったよ。 馬場自身、それまでのスタイルが時代に即していかなくなった事を感じていたのだと思う。興行成績でニュージャパンに水を開けらていた大きな原因がそこにあると認識していたのだろう。 私がオールジャパンを変えたという発言はしたくないが、結果的にそうだったかもしれない。」

ハンセンは82年から全日本マットに正式参戦しましたが、戦場を変えてもハンセンはやはりハンセンでした。
妥協なきハンセン・スタイルの試合はそれまで流血戦や場外乱闘が多くまったりした(失礼!)試合の多かった全日本のカラーを変え、馬場との初対決はその年の年間最高試合賞を獲得する名勝負となりました。

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 馬場との死闘、ハンセン
登場で全日本マットには
革命が…
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 師匠テリーに問答無用の
ウエスタン・ラリアット

師匠であり、移籍の仲介をしたテリー・ファンクは83年に引退する事が決まっていましたが、テリーに引導を渡すのは自分とばかりに抗争がスタート、この頃の私はファンクスの大ファンだったので、どうしようもない強さは認めながらもメチャクチャにテリーを痛めつけるハンセンが憎たらしくて仕方がなかったです(笑)。

全日本のアメリカンスタイル(ハンセン流に言えばNWA、あるいはハーリー・レイススタイル)を変革させたハンセンですがここで素朴な疑問…この頃ハンセンは本国アメリカではどんな試合をやっていたのでしょうか?
馬場は著書の中でハンセンについて「基本もセオリーも全く無視したかのような試合スタイルだが、アメリカではある程度相手に合わせているのは本国であれ(日本でのスタイル)をやるとレスラー仲間から嫌われるからだろう」と書いていました。
ハンセンが最もハンセンらしいのは本国ではなく日本…82年から全日本マットに定着したハンセンは90年代に入ると、ほぼ一年中日本にいて全シリーズにフル出場するようになっていきますが、これはWWEの侵攻(FILE No.412,413 参照)によって米マット界が大きく変わり、テリトリー制が崩壊した事が原因でした。
レスラーたちはWWEやWCW(テレビ局がオーナーの団体、WWEと熾烈な視聴率戦争を繰り広げるも累積赤字が膨らみ2001年WWEに身売り)の二大大手と専属契約を結ばない限り食べていけない状況になっており、アメリカに自分の居場所が無い事を悟っていたハンセンは日本に専念するようになったのです。
しかしハンセンにも何度かアメリカの大手団体から破格のギャラでスカウトの手が伸びました。
アトランタの空港でばったり会った旧知のレスラー仲間は親切心から「自分は現在WCWと年間70万ドルで契約している。ハンセン、君も早く日本から引き上げてWCWと契約した方がいいぞ。」と忠告してくれたそうです。
70万ドルはハンセンが全日本で稼いでいるより遥かに高い金額でしたから流石に心の動揺を押さえる事ができず、長い間日本を戦場にしているうちにアメリカが大きく変わり、自分だけが取り残されたような気分を味わったと言います。
専属契約を交わせば自動的に日本に行く事は不可能となります。
実際、かつては日本マットの常連だったもののWWEやWCWに行って日本から姿を消した外国人選手は何人もいました。
しかしこれはプロとしては当然の選択だと思います。
もし自分がアメリカ人だったら、わざわざ太平洋を越えた小さな国で成功するより、本国で地位と名誉を得たいと思うのが当然ですから。
ハンセンに迷いがなかったかと言えば嘘になるでしょう、しかし最終的にハンセンは日本を選択してくれました。
そこには国境を越えた愛があったのです。そう、実はハンセンの奥さんは日本人なんですよ〜!
いつぞやオンエアされたテレビの特集によると、出会いはハンセンが31歳、由美さんがまだ18歳の時で、友達と一緒にサイン会にやって来た由美さんにハンセンが一目惚れして恋が始まったとか…。
ハンセンは離婚歴があり二人の子持ち、当然相手方の家族は結婚に猛反対したものの、何度も説得してようやく結婚にこぎつけたのだそうです。
愛は国境も年齢差も越える…由美さんの存在がなければハンセンと言う名選手は日本から姿を消していたかもしれないのです。

こうしてハンセンは、引退する2000年までずっと日本一筋で戦い続けました。
通算来日回数は実に130回を越え、勿論外国人選手のダントツ一位、恐らくこの記録は今後も破られる事はないでしょう。

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 20年以上の長きに渡り
日本のトップに君臨

特筆すべきは新日本と全日本を股に掛け、アントニオ猪木とジャイアント馬場から始まり、自分と同世代のジャンボ鶴田、長州力、天龍源一郎、さらに90年代に入ってからは一回り以上年下の三沢光晴、川田利明、小橋建太らと三世代に渡る日本マットの歴代トップと最前線で戦い続けた事でしょう。
役者が年代によって求められる役柄が変わっていくように、マスカラス、ファンクス、ブッチャーらが皆レジェンドとしての特別出演となっていく中、ハンセンは20年以上に渡り外国人エースの座を死守し続け、全力ファイトの代償として腰、両肩、両膝が歩行が困難なほど限界に達した時、スパッとリングに別れを告げました。
衰えた自分をファンには見せたくない、ハンセン・スタイルの試合ができなくなった時はリングを降りる時と言うのがハンセンの美学、プロレスラーは死ぬまでプロレスラー…マスカラスやファンクスのように死ぬまでリングに上がり続けるのも生き様ならハンセンの信念にも男のダンディズムを感じます。

「不沈艦」「ブレーキの壊れたダンプカー」「首折り男」…いずれもハンセンに相応しい、勇ましいニックネームですが、私がハンセンに贈るとしたら「青い目の日本人」、勿論ハンセンは正真正銘のアメリカンですが、もはや日本のファンにとってハンセンは日本人そのものなのです。
最後はハンセンの泣かせるコメントで締めくくりましょう。
「スタン・ハンセンはアメリカのプロレス界ではレジェンドではない。

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 不沈艦よ永遠に…

WWEから殿堂入りの話など受けた事もない。でも日本では誰より愛されたガイジン・レスラーだと思っている。私にとってはアメリカで評価される事より日本での評価の方が何倍も大事なんだ。」

青い目の日本人、不沈艦よ永遠に…、ウイーッ!

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