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社長の経営日誌

孤高の天才 社長の経営日誌 田宮社長が好き勝手に織りなす独白です
 FILE No.467 2016.4.2

「 不死鳥の旅立ち 」

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 衝撃!ハヤブサの悲報に
絶句…
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 急遽、追悼号も発売

3月4日、月に一度の水元均先生の「関西スーパーマーケット実践会」(FILE No.331 参照)に参加していた時の事、LINEで事務所にいる某社員から連絡が入りました。「今朝、社長の机の上のカレンダーがハヤブサなのに気づいたんですが…亡くなられたそうですね。」
ハヤブサが亡くなった!?マジかよ!? すぐには信じられませんでしたが、慌ててネットを開くとヤフー・ニュースのトップページの「ハヤブサさん急死」の文字が目に飛び込んで来ました。
セミナーが休憩時間に入った時、一緒に参加していた何人かの社員も「ハヤブサが亡くなったそうですよ。」と話しかけて来て改めて知名度の高さを感じたものですが、死因はくも膜下出血との事、47歳と私よりも若いのに…言葉も出ませんでした。

奇しくも水元均先生がこの日、毎日更新されているブログで当社の事を取り上げて下さいました。
(商人伝道師一日一言 3月4日分より)
「本日はスーパーマーケット実践会、(中略)実践会ですから実践の報告が必ずある。
なんと…実店舗を持っていない総合商社のタミヤさんまで発表する。
因みにタミヤさん、第一期からずっと参加されている。
お取引の企業は参加されていないが…容器などを卸している企業が学んでおられる。なんかおかしな関係になっているけど、凄い事だと思う。
田宮繁人社長は凄い経営者である。」

はい、読者の皆さん笑わないように(笑)! こんなにまで評価して頂き光栄ですが、この日ばかりはセミナー中もハヤブサ・ショックが尾を引いて上の空でした、スミマセン!

ハヤブサに変身する前の素顔の江崎英治選手は1991年5月、大仁田厚率いるFMWでデビューしました。
私は旗揚げからFMWを追いかけていたので若手時代の彼の試合を何度も観ており、その頃からマスクも運動神経も良い彼は将来を嘱望されていました。
当時の私はリスパック東京支店に勤務していましたが、ある日同僚の女子社員二人組と飲みに行った時プロレスの話題になり、彼女たちが「一度観に行きたい。」と言い出しました。
二人組のうちの一人が埼玉県の戸田市の子で、ちょうど地元にFMWが来る事になり三人で観戦に繰り出しました。
記録を調べると92年9月7日、戸田市スポーツセンターでの試合でメインは有刺鉄線ストリートファイト・トルネード形式のデスマッチでしたが、そのスリルと迫力にはまったこの二人組、その後私がFMWに行く度について来るようになったのです。
一番良く行ったのが後楽園ホールですが、それにしてもうら若き20代の乙女?が有刺鉄線やら電流爆破デスマッチに夢中とは…これはまずい、少し軌道修正せねばと一度強引に全日本プロレスに連れて行きました。
同年10月のやはり戸田市スポーツセンターでの試合でしたが、感想を聞くと「ここは正統派のプロレスね。やっぱり私たちはFMWがいいわ。」…やばい、もう完全に手遅れでした(笑)。
今で言うプロレス女子の走りですが、私が翌93年に会社を辞めて実家に戻った後も三回ほど観光も兼ねて関西のFMWの試合を観にやって来たからオドロキです。
西宮スタジアム(93年8月)、大阪府立臨海スポーツセンター(93年12月)、大阪城ホール(94年8月)の大会を観戦し、宿代を浮かす為にしっかり私の奈良の実家に泊まっていきました(笑)。
その頃この二人組が入れあげていたのが次代のエース、江崎英治選手でした。
こいつらと一緒に行くといつも試合後に選手の「出待ち」に付き合わされるのでなかなか帰れないのですが、一度後楽園ホールの近くの路上で江崎選手と遭遇、女二人組で腕を組んでのスリーショット写真を撮らせてもらいました。
今思えばその時私も交代で撮らせてもらえば良かったのですが、その写真を週刊プロレスの読者投稿欄に送ったら見事カラーページに掲載されました。

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 ハヤブサに変身してトップスターに
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 華麗な空中戦が魅力

江崎選手は93年10月、海外武者修行に出発しメキシコでマスクマンのハヤブサに変身、頭の部分だけが開いた独特のマスクは当時としては画期的でした。
翌94年には新日本プロレスのジュニアの祭典「スーパーJカップ」(4月16日、両国)にワンマッチ出場の為に一時帰国、獣神サンダー・ライガーを相手に敗れたものの、ファンの度肝を抜く空中殺法を披露して一躍名を上げました。
95年、海外修行を終えて正式に帰国すると大仁田厚の引退試合(5月5日、川崎球場、大仁田は二度目の引退)の対戦相手を務め電流爆破マッチを初体験、以後大仁田のいない 新生FMWのエースとして団体を引っ張っていく重責を担うようになります。
しかし折角ハヤブサが帰国したと言うのに例の女二人組は川崎球場が終わるとプロレスから熱が冷めてしまったようで、自然に離れていきました。これだから女性ファンは当てにならないんだよねえ…私が今のプロレス女子を中心としたブームに不安を感じるのも、とにかく女性は熱しやすく冷めやすいからです…プロレス業界は私のようにどんな時もプロレスを見捨てず一生お金を落としてくれるマニアを大事にしましょう(笑)。

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 時には素顔を晒す事も…

女二人組とも今やお母さんですが、そのうちの一人とは今でも連絡がつくので、久々にLINEで「ハヤブサ急死」を伝えてしばし会話をしました。
「三人で写真撮って雑誌に載ったの懐かしいな。」とメッセージを送ると「えっ、そんな事あったっけ?」と返信が…覚えてすらないのかよと呆れましたが(苦笑)、今度その写真を送ってくれとリクエストされたのでいつになるやらわかりませんが、そのうちに実家で23年前の雑誌を探索しましょう。

90年代は新日本プロレス、全日本プロレスが二大メジャーと呼ばれメジャー団体とそれ以外のインディ団体の間にはまだまだ大きな壁があった時代で、総じてメジャー系の選手や関係者は「インディの選手はレスリングの基礎が出来ていない」と白眼視する傾向がありましたが、ハヤブサ選手は前述の新日本だけではなく97年には全日本にも特別参戦を果たしメジャーでも通じる事を証明、名実ともにプロレス界のトップスターの仲間入りを果たしました。
そんなハヤブサ選手を悪夢のような悲劇が襲います。それは2001年10月22日、FMW後楽園大会の試合中の事でした。

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 悪夢のような事故が発生!

リング内でセカンドロープに飛び乗り、後方に反転するラ・ブファドーラと言う技を試みようとした時、ロープ上で足が滑り後頭部から受身が取れない状態でモロにマットに落ちたのです! そのままピクリとも動けなくなりすぐに救急車で搬送されましたが、意識こそはっきりしているものの首から下の感覚が麻痺しており、医師は頚椎を損傷して神経を圧迫している状態と診断し、「三ヶ月以内に感覚が戻らなければ、一生このままの状態が続く事も覚悟して欲しい。」と非情な宣告がされました。
「最初はすぐに良くなるだろうと楽観していましたが、冷たい岩に首だけが生えているような感覚が続いて痛みやかゆみ、便意すら感じられず食事や排泄も自分では出来ない。
生きる意味が分からず自殺する事ばかり考えていました。でも身体が全く動かせないのですぐ近くの窓から飛び降りる事も出来ない。死ぬ事すらできないのかとベッドの上で泣き続けました。」(ハヤブサ選手のインタビューより)

長く苦しい闘病生活と必死のリハビリで2003年3月にようやく退院、車椅子の生活を余儀なくされながらもハヤブサ選手は非凡な才能を発揮し、作詞・作曲もこなす歌手として再起しました。

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 天龍&マスカラスと
(2010年10月新木場)

また、講演会を行ったり障害者の自立支援や介護の事業を手伝うなど精力的な活動を続ける傍ら、例え何年かかろうともプロレスラーとしてリングに帰る夢を決して諦めず、近年では車椅子から自力で立ち上がり、杖を使って200mほど歩き、スクワットを150回こなすまでの奇跡的な回復を果たしました。
私もずっとプロレスラーとしてカムバックして欲しいと内心願いつつも安易にそれを口にする事は出来ないと思っていたのですが、ひょっとするといつか夢が叶うかもしれないと思っていた矢先の悲報に無念の思いを禁じ得ません…。
今回の報道でハヤブサ選手が都内で独り暮らしだったと知って、「えっ?」と思いました。
事故に合う前に結婚されていたと記憶していたからです。
いつ頃、どういう経緯で離婚に至ったかは知る由もありませんが、不自由な身体で独りでの生活はさぞ大変だったろうと、そこでもまた胸が痛んだものです。
ハヤブサ選手が暮らしていたのは大田区の梅屋敷で、奇しくもお亡くなりになった3月3日、自宅から目と鼻の先の大田区総合体育館で新日本プロレスが大会を行っていました。そしてそのリング上でかつてハヤブサ選手が出世試合を行った大会「スーパーJカップ」が今夏6年ぶりに開催される事が発表されたのです。
何とも因縁めいていますが、天国からハヤブサが見守ってくれているのできっと素晴らしい大会となる事でしょう。

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 論外に支えられながらも
リングに上がる
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 笑顔でトークタイム
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 ようやく三人が揃い踏み
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 ハヤブサ、FOR EVER!

昨年の12月1日、後楽園ホールに来場された時が私にとっての最後の勇姿となりました。
この日は試合前にリング上で武藤敬司選手、NOSAWA論外選手とのスペシャルトークショーが行われ、テーマ曲に乗って車椅子で現れたハヤブサ選手は論外選手やセコンドの身体を支えにリングに上がろうとしました。観客の誰もが心の中で(頑張れ!)と叫ぶ中、時間はかかったもののリングインに成功、始まったトークショーは武藤が交通渋滞に巻き込まれて大遅刻した為、論外とハヤブサの二人が下ネタを織り交ぜながら時間を繋いでいました。
冒頭にあるようにこの日売店で購入したハヤブサ選手の卓上カレンダーを会社の机の上に飾っていますが、これまでの名場面が散りばめられたこのカレンダーは非常に出来が良く、大変気に入っています。
そして、あの女二人組に遅れる事実に23年、最初で最後のツーショット写真を撮らせて頂きました。

リング復帰への夢こそ志半ばに終わったものの、最後までニックネームの通り「不死鳥」らしい生き様を見せてくれたハヤブサ選手、天国に旅立った不死鳥に合掌…。

PS…締切直前、たまたま帰った実家にて23年前の週プロを奇跡的に発見!

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私が27歳の時に撮影した素顔時代のハヤブサ選手と女二人組の写真を見つけました!
当人のご要望により武士の情けで二人組の顔にはボカシを入れさせて頂きました(笑)。

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