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社長の経営日誌

孤高の天才 社長の経営日誌 田宮社長が好き勝手に織りなす独白です
 FILE No.480 2016.7.9

「 格闘技世界一決定戦(3) 」

季節は早や7月ですが、先月(6月)最大の衝撃はやはりモハメド・アリが亡くなった事でした。

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 伝説の試合が40年ぶりに
ノーカット放送

6月12日の日曜日には急遽ゴールデンタイムで「猪木−アリ緊急特番」がオンエア、実に40年ぶりに地上波でノーカット放送の快挙に私の知っている猪木信者など「闘魂鉢巻に闘魂タオル、猪木Tシャツを着てテレビの前に正座してなるべく瞬きも控えて」(笑)観たそうです。
莫大なリスクを負って世紀の大一番に賭けたあの頃の猪木さんや参謀の新間さんらの気持ちを思って、私も番組中ついほろっと来ましたよ(涙)。

今や伝説となった試合が行われたのは1976年(昭和51年)6月26日でした。
この年は太田裕美さんの「木綿のハンカチーフ」(75年12月21日発売)が大ヒット、それに続く「赤いハイヒール」が発売(6月1日)された直後に、20世紀最大のスーパーファイトが実現したのです。
私はまだ小学5年生でしたが、前年からプロレス&猪木ファンになっていたので試合当日を楽しみにしていました。
決戦三日前の6月23日、「水曜スペシャル」で生中継された調印式も当然観ました。

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 調印式でやり合う両者、
決戦ムードは最高潮!

試合本番ではない調印式がゴールデンタイムに特番でオンエアされたのですから、いかにこの試合が日本中の注目の的だったかがわかって頂けると思います。

番組内でアナウンサーが街の声を聞くコーナーがあり、マイクを向けられた都民の殆どが勝敗予想で「アリの勝ち」と答えていました。
昔から世間の馬鹿どもはオリンピックやワールドカップになると突如にわかファンに変身し日本を応援するくせにこの時は全く逆、世間のプロレスに対する偏見をまざまざと感じましたが、猪木さんがあらゆるリスクを覚悟でアリに挑んだ最大の理由がここにあったのだと思います。
プロレスを低く見る世の中をあっと驚かせる猪木イズム…私も子供ながら反骨心に火がつき、(この非国民どもが、猪木を応援しろよ!)とテレビ画面に向かって叫んでましたね。

いよいよ試合当日、アメリカでのプライムタイムに合わせた為、日本武道館の開場は何と朝の9時、そして猪木−アリのゴングが鳴ったのは11時50分でした。

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 世紀の大一番、当日の
東京は雨模様…

日本でのテレビ放映は午後一時開始で、日本中がテレビにかじりついたあの試合を私はずっと生中継と錯覚していましたが、約1時間遅れのディレイ中継だったのです。
土曜日だったので小学校は午前中で終わりましたが、何故かこの日に限って終礼がなく、一刻も早く家に帰りたい男子生徒たちは大歓声、クラスメイトの一人が「先生も試合が早く観たいからや。」と言っていましたが、まさかそんなわけはないでしょ(笑)。
とにかく日本中の男の子がそうしたように学校からダッシュで帰宅、テレビの前に陣取りました。

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 猪木の攻めはローキック(後にアリキックと呼ばれるようになる)一本槍!

まだ週休二日制もない時代、しかも昼間にも関わらず視聴率は驚異的で、平均46%、瞬間最高は54%を記録、つまり大雑把に言えば国民のほぼ半分が観ていたのです。
今ならオリンピックやワールドカップの日本代表戦でないとありえない数字で、「試合中には首都高速から車が消えた!?」なる都市伝説もあながち嘘ではないと思えます。

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 アリは左足が血栓症に
なり帰国後入院する程の
ダメージ

ビデオもまだ普及していない時代とあって夜7時半からは再放送もやっていました(平均19%、最高26.3%)。
日本中が猪木−アリ一色で終わった一日、しかし肝心の試合はがんじがらめのルールの制約の中で膠着状態が続く消化不良となり批判が集中、マス・メディアは一斉に叩きまくりました。あまりにも期待と注目が大きかった為、その反動も凄まじかったのです。

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 内容的には猪木の判定勝ちとなってもおかしくなかったが…

当時若手の一人だった木村健悟選手の証言
「試合の後、悔しさ半分、終わってほっとしたのが半分でさ、当時今の女房ともう付き合っていて夜飲みに行ったの。そうしたら飲み屋のテレビでちょうど試合の再放送をやってたんだよ。俺と女房はカウンターで飲んでたんだけど、横にいた奴らがテレビ観ながら
「ああ、やっぱり八百長だ!」と言ってるのを聞いて「ふざけんな!」って怒鳴りつけたよ。「俺は新日本プロレスの木村だ!猪木さんのスパーリングパートナーもやったんだ!」って胸をバーンと突いたら相手は将棋倒しみたいに床に倒れてさ…俺がいきなり怒り出したから女房も驚いただろうね。こういう仕事をしているのは知ってても気性が荒い面を見せた事はなかったし。でも馬鹿にされるのが許せなかったんだよ。自分は猪木さんと一緒に練習をしていて、あの蹴りの怖さを体験している。猪木さんにしろ俺らにしろこの試合に賭ける思いって凄いものがあったから、それが伝わらないもどかしさを感じたよね。
どうしたら我々のやっている事を…そういう気持ちは今でも同じだよ。」

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 6ラウンド、猪木は反則のエルボーで減点1

この試合の私なりの見解は二年前にも記しましたので(FILE No.382「格闘技世界一決定戦(2)」参照)こちらをお読み頂きたいですが、観た人の期待を裏切ったと言う事で決して名勝負とは言えないものの、やはりとてつもなく凄い試合だったと思います。
勿論今はそう思えるのですが、当時10歳のガキにこの試合が理解できるはずもなく、とてつもなくショックを受けました。
学校で毎日提出する連絡日記に「全然面白くなくてがっかりした。30万円(この試合のリングサイドの最高額!)を払った人はどんな気持ちだろう。」と書いたのを覚えていますが、観客の満足度をまず第一に考えた事が、その頃から知らず知らずのうちに経営者感覚を身につけていたと自画自賛しております(笑)。

あれから40年の月日が流れ、6月26日(某コップ屋さんの結婚記念日 笑)は「世界格闘技の日」に認定されました。長い歳月を経てようやく正当な評価を受けるようになったのです。
これまでにも多くの特集本、検証本が出版されて来ましたが、今年が40周年である事に加えアリが逝去された事もあって、この6月も続々と新たな書籍が書店の店頭に並びました。
6月の私は過去の出版物も含めそれらを一気に読破、流石にこの試合については語り尽くされた感があるので、新たな書籍が出ても目新しいエピソードはもうないだろうと思っていたのですが、別冊宝島「プロレス真実の扉」に掲載された「発表された最終ルールはなぜ無視されたのか?」なる記事は目を引きました。

世紀の一戦は15Rをフルに戦い抜き、ジーン・ラーベル(レフェリー)、遠藤幸吉、遠山甲、三人のジャッジによる判定にもつれ込みました。
主審のラーベルは猪木とアリが同点(ポイントは71-71)、遠藤幸吉は74-72でアリの勝利、遠山甲は72-68で猪木の勝利、「1勝1敗1分け」と言う三者三様の結果により引き分けの裁定が下されたのですが、冷静に見ても猪木の方が手数が多くアリにダメージを与えていたし、大体何でプロレス側の人間の遠藤幸吉が「アリの勝ち」にしたんだ?(自分がレスラーなので敢えて猪木に厳しく採点していたらこうなったのか?)と疑問が残ったのも事実でした。それでも、まあこんなものか誰も裁定そのものに異議を唱えなかったのは、それよりも試合内容を酷評する方に皆の意識がいってしまったからでしょう。
ところが、今回別冊宝島が問題定義をしているのは、試合の二日前(6月24日)に新聞紙上で公表された「最終ルール」には「判定=15Rが終了した時はレフェリー、ジャッジの合計得点の多い方が勝者」と言う一文がはっきりとあった事なのです!

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 ドロー裁定は発表ルールの通りなら世紀の大誤審!?

三人の採点の合計はアリ213点に対し猪木215点、と言う事はルール通りなら猪木の勝ちじゃないですか!?
当時は会場内でもテレビ中継でも明確なルールの説明がなかったので、観客や視聴者から文句が出なかった(試合内容への文句は出たが)の無理もありませんが、マスコミからも一切「合計得点で勝敗が決まるはずではなかったのか?」とのツッコミがなく、この事に気がつく人が40年間いなかったのは驚きです。つまりはマスコミ、関係者、レフェリー、ジャッジ、誰もルールを明確に把握していなかったのでしょう。
同誌ではアリ側とルール交渉に挑んだ新間さんのコメントを掲載しています。
「それは初耳だよ。40年間そんな話は一度も聞いた事がない。勿論当時もそんな事は一切知らなかったし…まあルールは私が作ったんだろうけど、本当にどうしてこんなルールになったのか全く覚えていない。確かにそのルールは発表されたのかもしれないけど、それは本当のルールではなかったんです。(中略)試合直前までルール問題はこじれてマスコミ向けに発表した最終ルールと言うのは言わば実体のないものであって、通常の状態で合意したような正式なものではなかったんです。だってこの私が40年間その存在を忘れていたんだから。」 当時の混乱ぶりが伺えますが、新間さんがアリ側から発表されない「裏ルール」(猪木は片手、片膝をついた攻撃しか認められない)など無理難題を強要され続け、「条件を飲まなければ試合をせずに帰国する」と脅されていたのは今や周知の事実、最後はルールなどもう何でもいいからとにかくアリをリングに上げてしまえ!という状況だったのです。
まあ、40年が過ぎた今となっては引き分けで良かったと思えるあの試合ですが、少なくとも公式に発表されたルール通りなら猪木の判定勝ちだったと言う事は声を大にして言いたいですね。

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 世界最強の男を決める死闘が終わり二人はかけがえのない友人に…
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 95年、北朝鮮での平和の祭典に参加してくれたアリ

アリ戦で莫大な借金を抱え込んだ新日本プロレスはその返済の為にその後も「格闘技世界一決定戦」を継続、猪木さんは様々な未知の格闘家と戦い続けました。
「アリ側が再戦の条件として送り込んで来た刺客」と言うアングルで組まれた試合もあり、猪木さんもインタビューではアリとの再戦に前向きな発言をしていましたが、実際にはもうやる気はなかったのではないでしょうか。
厳しいルールの中で精一杯死力を尽くした二人はかけがえのない友人になり、再会した時 アリは猪木さんに「おい、あんなに怖い試合は無かったよ。」と本音を漏らしたそうです。
プロレスとボクシング、お互いのジャンルを背負った文字通りの最強者決定戦は一度きりだったからこそ伝説になったのでしょう。

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 98年、アリは猪木引退試合にも駆けつけてくれた

最後に週刊プレイボーイ(5月16日号)に掲載された猪木さんのコメントを紹介…
(人生をやり直す事になったらもう一度アリと対戦しますか?)
「やりたくないですよ、もう(苦笑)。いや、ないと言ったら夢がなくなっちゃうから、もう一回やって決着をつけたいねと言う事にしようか?ファンに向けたサービスとして(笑)。」

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