(前回からの続き)
浜松でのコンサートが終わり、裕美さんと同じ東京行きの新幹線こだま号に飛び乗った時、朗報が届きました。
今朝6時22分、愛川ゆず季、無事出産!!
体重2590gの元気な男の子との事、予定日よりはかなり早かったそうですが何はともあれ一安心です。
「想像以上に痛くて壮絶で汗だくになり、泣きわめき絶叫しまくりで、決して奇麗なお産ではなかったですが一生忘れません。」(愛川ゆず季オフィシャルブログより)
…お産に奇麗も汚いもないですし我々は皆、母親の壮絶な頑張りでこの世に生を受ける事が出来たのだと改めて実感(涙)、何はともあれゆずポンに「よく頑張った、おめでとう!」の言葉を贈りたいです。
そして特筆すべきは本日は6月2日、そう、「猪木舌出し失神事件」
(FILE No.276,277,576参照)の日なのです!
あの歴史的一戦の35周年記念日に生まれるとはこの子は将来絶対安泰間違いなし、いっそ名前は寛至(猪木様の本名)かハルクにして欲しかった…って私の子じゃないっての(笑)!
以前からの公約である「舌出し事件」の日は牛タンを食べる(笑)を果たすべく東京に着くと牛タン屋に直行、35周年&ゆずポン出産&裕美さんのコンサート成功を祝い一人で祝杯を上げました。
一夜明けた3日の日曜日は東京滞在のラスト日、最後を締めるイベントとしてケンドー・ナガサキこと桜田一男さんの自伝発売記念トークショーに行って来ました。
桜田さんはこのイベント用に往年のペイントを再現してくれましたが、考えてみれば90年にFMWを経てSWS旗揚げに参加した頃は(リングネームこそケンドー・ナガサキだったものの)既に素顔だったのでひょっとして日本でのペイントは約35年ぶり(未確認)?御本人もあまりに久しぶりでかなり苦戦された模様です。
トークの内容を再現したいところですが過激でヤバい話が多く、主催者側から「SNSにあまり書かないで」とのお達し…言われなくてもとても書ける内容ではありません(笑)。
この日購入した「ケンドー・ナガサキ自伝」を帰りの新幹線で一気に拝読しましたが、こちらもかなりの面白さ、当然ながらトークと被る部分も多いのであくまで自伝からの抜粋としてご紹介します。
「サクラダ、新しいキャラクターに生まれ変わるんだ。俺たちはビッグなヒールを必要としている。このアイディアは必ずウケるはずだ。」
時は1982年、プロレス界に飛び込んで11年目、33歳の桜田さんがフロリダ地区で仕事をしていた時、同地区のブッカーを務めていたテリー・ファンクはそう前置きして言葉を続けました。
「古来から日本に伝わる“剣道”と、アトミック・ボム(原爆)の被爆地となった“長崎”を合わせて、名前はケンドー・ナガサキだ。」
「虎だ、虎だ。おまえは虎になるのだ。」(アニメ版「タイガーマスク」のオープニング)の如くテリーの命によりケンドー・ナガサキに変身する事になった桜田さんですが、自身は北海道出身で長崎には何の縁もゆかりもなく、また剣道の経験があるわけでも無いので、この二つを組み合わせる事自体全く意味不明だったそうです(笑)。
何度も来日して日本の文化にも詳しいテリーはテレビで観た時代劇の落武者が強く印象に残っており、それと同じ髪型に加え顔へのペイント、さらに日本から剣道の防具一式の取り寄せを要請して来ました。
「防具に2〜30万円かかった」(トークでのコメント、剣道の防具ってそんなにするのか!?)
桜田さんは中学卒業後に大相撲の立浪部屋に入門、64年1月に初土俵を踏んだものの親方との意見の相違から71年3月に廃業、日本プロレスに入門しプロレスラーへの転向を果たしました。
日プロの道場で学んだプロレスのイロハは「たまにトークショーなどに呼ばれてもこんな話は殆どしないが、折角の機会だから思うままに書き進めよう」と自伝ではたっぷりとページが割かれており、非常に興味深く拝読しました。
「レスリングは組み合う事から始まるからロックアップを最初に学ぶ。今の試合を観ていると両腕を高く挙げ、上から組み付くようなやり方をしている選手がいるが、俺たちがこんな隙だらけのロックアップをしたら怒鳴られた。身体を伸び上がらせたら相手に簡単にタックルされるので、組む時は左手を前に出し直線的に入っていく。これが上手く出来ないと頭と頭がぶつかったり、手が相手の顔に当たったりする。
組んだ時に力を入れるのは相手の首をとった左手で、右手は首を取りに来た相手の左腕を外側から押さえつけホールドする。左手が首で右手が腕、プロレスの基本としてこれは絶対覚えておかなければならない。これさえわかっていれば海外で全く知らない相手とロックアップしても頭がぶつからない。
但し例外もありメキシコのルチャ・リブレと日本の昔の女子プロレスだけは左右が逆で、最初にメキシコに遠征した時は大変だった。」
「ロックアップで組んだら押し引きの中でヘッドロックを取りに行く。
相手の押し返して来る力を利用して左手で首を引き込み、相手の腕をホールドしていた右手を顎に持って来てロックするが、今はこれを単に型としてやっている奴もいる。
本来はこちらが押し相手が押し返すから無駄な力を使わずヘッドロックが取れるのだ。
そしてそのまま絞って痛めつけるか、投げてグラウンドに持ち込みピンフォールを狙う。形だけで頭の上の方をヘッドロックしたり、最近では相手にロープに振られる為にヘッドロックを取っているように見える試合もあるが、そういう選手は何の為にヘッドロックを取るのか意味も分からずリングに上がっているのだろう。
ヘッドロックに取られた際の切り返し方も教わった。自分の頭を抜きながら相手の腕をロックする。ここで攻めに切り替わるのだ。
ヘッドロックを取られたから相手をロープに振るという選択肢はない。しっかり固められていたら相手の背中を押すだけでロープに振れるわけがない。
先ずは頭を抜いて切り返していく事を覚える必要がある。外された方は今度は違う切り返しを狙い、腕をとったり首を取ったりという攻防を繰り返して試合は動いていく。
ゴングが鳴ってすぐにロープワークの攻防に走ったら、じっくり腕を取り合う攻防には戻れないもので、今は順序がおかしい試合が多い。組体操のような決まりきった攻防でなく、相手とのナチュラルなやり取りの中でレスリングをしていけば自然と試合の組み立てはうまくなっていくものだが、今の試合はあまりにもやる事を決めすぎているようだ。
これでは緊張感も生まれないし、観ている方も面白くないと思うがアドリブの攻防を嫌がる選手が増えたようだ。」
何とも奥深い話ですが、どちらが良い悪いでなく今と昔ではプロレスが全然違うのでどうしても桜田さんの目線では基本が疎かな現在に対し批判的な部分が目立ちます。他にも受け身、ボディスラム、ロープワーク、さらにはタッグマッチのコツなども詳しく解説されており、ファンだけでなく(生意気ながら)是非、現役レスラーにも読んで欲しいと思いました。
73年に日プロ崩壊後は吸収合併される形で全日本プロレスに移籍、翌74年に桜田さん曰く「3バカ」(笑)、新人として大仁田厚、渕正信、薗田一治が入団し桜田さんはコーチ役を務めました。
「渕と薗田は真面目だったが、大仁田だけは厳しい練習をさせるとすぐに泣きを入れた」
そして76年10月、天龍源一郎が相撲から転向して来た事で、桜田さんにも転機が訪れます。
天龍はすぐ渡米して修行する事になっていましたが、12月の妹の結婚式には力士として参列する為(それが父親との約束だった)それまで髷が切れず「床山」が必要になり、同じく相撲出身の桜田さんが同行する事になったのです。
海外志向の強かった桜田さんには千載一遇のチャンスで、天龍帰国後もアメリカに残留してそのまま各地を転戦、トライステート地区(ルイジアナ、ミシシッピ、オクラホマ)でヒールの大物、キラー・カール・コックスのタッグパートナーに抜擢された事が飛躍のきっかけとなりました。
「コックスは荒々しく魅せるのも巧かったし腕を取ったりの基本もしっかりしていた。
決して派手な事をやるわけではないが、細かい技が上手くやられる時の受けっぷりもいい。
お客をいじったりレフェリーに罵声を浴びせたりして相手と組み合わなくても試合が出来た。大会場ではジェスチャーで遠くの観客まで届かせる事も大事だ。
プロレスは相手と対戦しているが本当に戦っているのはある意味でお客だ。
極論を言えばかっこいいところだけ見せれば良いベビーフェースは誰でも出来るが、そのベビーを光らせお客からヒート(観客の憎悪を煽る事を指す業界用語)を取って試合を作るのがヒールの役割だ。
「今は受けに回る時間だ」「ここはお客を思いきり煽れ」「まだ相手にタッチさせるな」
そんな事を口にしながらコックスは試合の中で大事なポイントを教えてくれた。
俺は試合の基本は日プロで教わったが、流石に客のいじり方までは教えてくれない。
コックスはレスラー人生の中で俺が最も影響を受けた一人だった…。」
こうしてヒール開眼した桜田さんは各地でトップを取り前述の通り、フロリダでケンドー・ナガサキに変身します。
その他、
何故新日本プロレスに移籍したのか?(85年)
ブルーザー・ブロディ刺殺事件の現場(88年)
バブル団体SWS誕生と崩壊の経緯(90年)
NOWや大日本などインディ時代(92年〜)
バーリトゥードへの挑戦(95年)
禁断のパートナーであるミスター・ポーゴとの関係…etc
まだまだ面白いエピソードは尽きないのですが、250ページの本がわずか数ページにまとまるわけがなく(当たり前だ!)後は皆さん自分で買って読んで下さい(笑)。
ほんと読んで損はなし、お薦めの一冊です。別に私カネ貰って宣伝頼まれているわけではないので(笑)!
長時間のトークイベント中に無意識に顔を触ってしまうので、ペイントがはげ落ち一旦お色直し、それから記念撮影タイムとなり、あの落武者ざんばら髪が復活しました!
勿論ウィッグですがこんなのよく見つけて来たなあと感心、私も負けじと昨年のイベントで入手したドリーム・マシーンのマスクを持参しました。
82年10月、全日本に帰国した時に謎のマスクマンとして一時凱旋した桜田さんでしたが、自伝に戻ると「アメリカで成功したケンドー・ナガサキで凱旋していたら、あの時はザ・グレート・カブキ(83年2月帰国)より先だったので話題になったかもしれないのに、わけのわからないマスクマンで前座の扱いだった。馬場さんはアメリカで成功した日本人は自分が第一人者という思いがあるから、俺が上を取る事が気に入らなかったのだろう。この時の不信も後に新日本に移った一因だった」と記されており、ご本人にとっては良い思い出ではないようですが…願わくば次回はマスク、ワンショルダー・タイツ、マントでドリーム・マシーンを完全再現して欲しい!
私もなんだかんだと年一回のペースで桜田さんとお会いしているので、すっかり顔を覚えて頂いたようで「いつも有難う」と丁寧にお礼を言われ恐縮しました。
まだ続く6月ネタ、次回からの舞台は海の向こうです!
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(次回へつづく) |
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