FILE No. 950 「シュツットガルトの惨劇(3)」

「シュツットガルトの惨劇(3)」
(前回からの続き)
78年、ドイツ・シュツットガルトで行われたアントニオ猪木VSローラン・ボックの一戦はファンの間で評判となり、敵地とは言え全盛期の猪木が完敗を喫した事から「シュツットガルトの惨劇」と呼ばれ伝説化しました。
この試合の実況を担当したのがテレビ朝日入社2年目の古舘伊知郎アナウンサーでした。
記念すべき初の海外出張、解説者なしで喋り続け、しかも猪木が大苦戦のうえに敗北と言う衝撃の結末、古舘さんは著書の中でもっとも思い出深い試合の一つとしてこの一戦を挙げています。
それにしても、今思ってもテレビ朝日がわざわざドイツまで行って映像を収録してくれた事はグッジョブでした。猪木の有名な試合では東京プロレス旗揚げ戦のジョニー・バレンタイン戦、韓国・大邱でのパク・ソンナンとのセメントマッチなど、映像が存在しないものがいくつかありますが、ボック戦がそうなっていたら「シュツットガルトの惨劇」のフレーズだけが独り歩きして猪木が一方的に叩き潰されたと言うイメージだけが定着していた事でしょう。
実際、映像未見のファンの中には未だにそう思っている人が多いようですが、前回も書いたように6-4~7-3でボックが押しまくっていたにせよ、フルラウンドを戦い抜き、裁定はジャッジ3人による判定決着、内容的にはむしろ「シュツットガルトの激闘」と呼ぶべきものでしたが、それが(映像があるにも関わらず)「惨劇」のフレーズが使われたのは、それぐらい当時はアントニオ猪木の敗北そのものが衝撃的だったのです。
年が明けた79年、新日本プロレスはボックを招聘し再戦を画策します。
常勝エース猪木が負けたままでは恰好がつきませんし、何しろこのカードならかなりのビッグマッチが見込めますから当然の事で、7月の「サマーファイトシリーズ」後半一週間にボックの特別参加と最終戦(8月2日)の品川プリンスホールで猪木がボックの挑戦を受けるNWFヘビー級選手権の開催が正式決定しました。
しかし来日直前の7月24日、ボックが車で走行中にスリップ事故を起こす、不幸な大アクシデントが発生しました!
二週間の入院と2カ月のリハビリセンター通いを余儀なくされる重傷で当然来日は中止、蔵前のタイトル戦は坂口征二が代役を務めると一旦は発表されましたが、タイガー・ジェット・シンが緊急来日して割り込み挑戦する事となりました。
因みに猪木と坂口は年に一度の春の本場所「ワールドリーグ戦」の公式戦で毎年のように戦っていましたが、坂口がNWFに挑む事は生涯で一度も無かったので、ここは猪木VS坂口のNWF戦が観たかったところです。
ようやく復帰したボックは同年暮れに本国ドイツでアンドレ・ザ・ジャイアントとの世紀の一戦が実現(この試合についてもいずれ詳しく触れたい)しますが、この試合で左足を負傷、かなり深刻な血栓症となって一か月入院、退院後もリハビリに半年以上かかった為、試合どころか殆ど練習も出来ず、翌80年も棒に振る事となったそうです。
結局、日本のファンが待ちに待った(待ちくたびれた?)初来日(実質)が実現したのは最初の予定から2年遅れの81年7月の事でした(「サマーファイトシリーズ」後半一週間)。
遂に神秘のベールを脱いだボックは初戦で木村健吾をわずか1分35秒、第2戦では長州力を3分28秒で秒殺し、日本のファンを戦慄させました。
健吾さんが後年のトークイベントで、「これまで戦った相手で一番強かったのはボック」と答えていたのを覚えていますが、当然シリーズ最終戦(8月6日)の蔵前ではファン待望の猪木―ボック戦が期待されました。
しかし、猪木の相手として発表されたのはマスクド・スーパースター(賞金3万ドル&覆面剥ぎマッチ)で正直ファンは肩透かしを食わされました。何しろこの二人は過去何度も戦っており(しかも猪木がほぼ全勝)、苦し紛れに?賞金とマスクを賭けるアングルが組まれたものの新鮮味が全く無かったからです。
当日ボックは前座のタッグマッチに出場しましたが、猪木戦が回避されたのは出し惜しみをしたと言うよりボックの体調がまだ回復していなかった為の配慮と思われます。
ボック二度目の来日は同年暮れの「MSGタッグリーグ戦」(この時も後半一週間の特別参加)で、ここでは6人タッグながら猪木と3年ぶりの遭遇、またシリーズ天王山の蔵前(12月6日)では猪木・藤波の師弟コンビがボック&スタン・ハンセンの超異色コンビと戦うドリームマッチが実現しボックが猪木の眼前で藤波をKO、シングル戦への期待が一層高まりました。
さらに、この年全日本プロレスから鳴り物入りで移籍して来たタイガー戸口や元国際プロレスのエース、ラッシャー木村にもあっさり秒殺勝利している事も特筆もので、特に木村はこの前月と前々月(10~11月)に蔵前での猪木とのシングル2連戦で1勝1敗(勝利は反則勝ちだったが)と星の上では五分五分の戦績を残していましたので、体調不良と言いながらもボック恐るべし!の印象を与えました。
そしてとうとう年明けの82年1月1日(元日)、後楽園ホールでのアントニオ猪木VSローラン・ボックの特別試合が正式決定しました…。
(次回へ続く)