FILE No. 951 「シュツットガルトの惨劇(4)」

「シュツットガルトの惨劇(4)」

(前回からの続き)

「シュツットガルトの惨劇」以来3年ぶりとなる、アントニオ猪木VSローラン・ボックの再戦は1982年1月1日、東京・後楽園ホールで行われました。
この日は猪木VSボック以外にもボブ・バックランドVS藤波辰巳(WWFヘビー級選手権&飛龍十番勝負)、タイガーマスクVSダイナマイト・キッド(WWFジュニアヘビー級選手権)も組まれテレビ特番で生中継あり、蔵前国技館級の超豪華カードを敢えて後楽園に投入する余裕ぶりが憎く、当時の新日本プロレスの大ブームを象徴していたかのようでした。

ファンが待ちに待った再戦は不透明決着に…。 
出典:『Gスピリッツ』(辰巳出版)

期待の猪木・ボック戦は欧州ルールのラウンド制で行われましたが、わずか3R、ロープブレークを無視して猪木にスリーパーホールドを仕掛けたボックが制止するレフェリーを場外にフッ飛ばしてしまい反則負け(3分36秒)、呆気ない結末に客席からはブーイングと延長コールが鳴り響く有様で消化不良の不透明決着に終わってしまいます。
ある雑誌は「猪木ファンがこれほど長く再戦を待ち望み、これほどがっかりした試合はなかった。」と批判していましたが、やはり血栓症の後遺症から本調子で無いボックには長時間の試合は難しかったのでしょう。
こう書くとボックばかりの責任に聞こえてしまいますが、猪木も80年代に入ってからは徐々に体力低下、この82年は左膝の半月板損傷(4月)、さらに糖尿病の悪化(7月)が原因で二度も長期欠場に追い込まれたのは周知の通り、死んだ子の年を数えても仕方が無いと言いますが、やはり当初の予定通り79年の夏に再戦が実現していればとつくづく思います。あのタイミングならシュツットガルト以上の激闘は確実でしたから、返す返すもボックの交通事故が無念です。

猪木戦こそ凡戦に終わったもののファンのボック信仰はまだまだ根強く、誰もがボックの継続参戦を望み次の来日に期待していました。
何しろ新日本プロレスは翌83年に「IWGP」(決勝リーグ戦)を控えていました。
世界の各エリアを代表する強豪が集結し、“真の世界最強は誰か?を決める”が謳い文句ですから、ボックが欧州ゾーン代表に選出されるのは間違いなし、そうなれば猪木戦だけでなくアンドレ・ザ・ジャイアント戦など、よだれの出そうなドリームカード続出は必至、因みに当時あった猪木の私設ファンクラブの会員アンケートでIWGP決勝戦の予想カードを募ったところ、猪木VSボックが堂々の第1位だったそうです。
しかし、82年元日の試合を最後にボックが日本の土を踏む事は二度とありませんでした。IWGPどころか消息すらわからなくなってしまい、そのままボックは伝説の人となったのです…。

それから約30年もの長い月日が流れ、私のような古いマニア以外はすっかりボックの存在を忘れてしまった2011年、奇跡が起こりました。
ずっと消息不明、死亡説まで流れていたボックがドイツ・シュツットガルトで健在だった事が判明、Gスピリッツが独占インタビューに成功したのです(涙)!
30年ぶりにファンの前に登場したボックは自身の生い立ち、アマレス時代、プロレスラーに転向してから、欧州ツアーとアントニオ猪木戦、日本での思い出、空白の30年から近況に至るまで…etc 全てを赤裸々に語り我々マニアは狂喜して、それこそむさぼるように拝読しました。

ボックは元気に生きていた!30年ぶりの登場 
出典:『Gスピリッツ』(辰巳出版)

本人の弁によると82年1月1日の試合を最後にプロレスを引退したとの事で、これでは来日が途絶えるのも無理はありませんが、奇しくもアントニオ猪木戦が事実上の引退試合となったのが何とも因縁深いです。

早いものでこのインタビューからも既に14年が過ぎましたが、ボックは現在もシュツットガルトで静かに余生を送っており、8月3日には81歳の誕生日を迎えました。
両足が悪く車椅子での生活だそうですがお元気そうで何より、出来る事なら今回のシュツットガルト視察でお会いしたかったです。

さて、78年の「シュツットガルトの惨劇」に話を戻すと、以前にもブログに書いた通りこの頃の私はプロレスから離れており(ウルトラシリーズや太田裕美さんに夢中)残念ながらこの試合をリアルタイムで観ていません。
実際に試合映像を観たのはこの数年後、再びプロレス熱に火がついてからで、それと前後して月刊ゴング(82年4月号)に掲載されたドキュメント小説を読んでその全貌?を把握しました。
東京スポーツの桜井康雄さんによるものでタイトルはずばり「シュツットガルトの惨劇」、この作品によって私のローラン・ボック観が決定付けられましたのでどうしても避けては通れません。詳しくは次回にて…。

(次回へ続く)