FILE No. 954 「シュツットガルトの惨劇(7)」

「シュツットガルトの惨劇(7)」
(前回からの続き)
デートリッヒがボックに何事か囁いた。頷くボック。ニヤニヤ笑う。デートリッヒも笑う。
「イノキはガタガタだ。焦らずにじっくり料理してやれ。」
デートリッヒはボックにそう言ったのだ。
(*ここから試合の詳細となるが省略、猪木は気力でフルラウンドを戦い抜くも判定負けとなる。)
欧州世界選手権シリーズのフィナーレはアントニオ猪木の敗戦で終わった。
ホームタウン・ディシジョンと言えるかもしれない。
しかし試合内容ではっきりと「猪木は負けていた。」と加藤記者は証言する。
ボックとの試合に負けたのではない。「欧州世界選手権シリーズ」18日間で16戦、全行程1000キロと言うハード・スケジュールに敗れたのだ。
ヨーロッパで仕組まれた“猪木殺し”の罠、フィナーレのボック戦はまさに“シュツットガルトの惨劇”とも言える戦いだった。
この過酷な試練を戦い抜き、猪木は1敗しかしなかった。しかしガタガタになった肉体。
この欧州世界選手権シリーズはアントニオ猪木と言う偉大なレスラーの選手生命を何年か縮めた事は間違いない。
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大変長くなりましたが、ゴングに掲載されたドキュメント小説「シュツットガルトの惨劇」、如何だったでしょうか?
いくつか明らかな間違いがあるので訂正させて頂きますが、猪木の正確な試合数は16どころではありません、戦績は22戦13勝1敗8引き分けが正解です(*エキシビションマッチ1戦=引き分けを含む)。
何故か当時の日本ではこの試合が欧州世界選手権シリーズの決勝戦と報じられた為(テレビのテロップも同様)小説でもあたかもシュツットガルトがツアーのラストマッチのように描かれています。勿論この日が天王山だった事は間違いないものの、実際には猪木はこの後さらに5試合(1エキシビション含む)に出場しています。
(File No.949 の全試合記録参照)
冒頭のロッテルダムからシュツットガルトへの移動シーンで新間さんが「1000キロ近く走る」と言っているのに、ツアーの全行程が1000キロと言うのも明らかに間違い、因みにネットで調べてみるとロッテルダム~シュツットガルトは約483キロの距離でした。
そこで初戦(11月7日)の西ドイツ・ラーフェンスブルクから最終戦オーストリア・リンツ(同29日)まで、猪木さんの移動距離を調べて見たところ(私も暇だねえ 笑)、
なんと約7700キロ!!!平均350キロの移動を3週間毎日続けた計算となります。しかもこれはあくまで欧州内での移動距離、厳密には猪木さんは11月3日に成田空港を出発、所用でパキスタンに2泊し5日に西ドイツに入って地獄のツアーをこなして12月1日の夕方に帰国、翌2日には鹿児島入りして新日本プロレスのシリーズに合流しているのですから、もはやこれは超人とか怪物と言った月並みな表現では表せない程のタフネスぶりです。
当時試合映像と前後してこの小説を読んだ私は大きな衝撃を受け、ボックの事を「猪木に数々の卑劣な罠を仕掛けて痛めつけた汚くて悪い奴」と思い込んでしまいました(笑)。
試合経過以外の部分が桜井康雄さんの創作だと今はわかりますが、その頃は本当に純粋なプロレス少年でしたよ(苦笑)。
30年の月日を経てGスピリッツの取材を受けたボックは「何故、23日で21試合(エキジビション除外)と言う殺人スケジュールを組んだのか?」「猪木が負傷しながら試合を続けていたのを知っていたのか?」と言うちょっと意地悪な質問に以下のように答えています。
「我々はプロモーターとして間違いなく重大な過ちをしてしまった。
とりわけ、猪木をメインイベンターとして毎日リングに上がらせたのは問題で、酷使し過ぎた事を認めねばならない。何と言っても彼だって人間なのだから、他のレスラーと同様疲労回復の時間を十分に与えるべきだったろう。現在の私はその事を深く後悔している。
猪木がデュッセルドルフの試合(ツアー第2戦、ボックとの初対決)で重傷(右肩)を負った事はこれまで知らなかった。遅ればせながら心から彼に謝罪したいと思う。」
ボックさん、紳士的で善い人!あの小説はなんだったんだ(苦笑)!
そんな人を悪人と思い込んでいたなんて、こちらこそボックさんに謝罪しなければなりません(苦笑)。
(次回へ続く)