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社長の経営日誌

孤高の天才 社長の経営日誌 田宮社長が好き勝手に織りなす独白です
  FILE No.724 2021.4.3  

「 王者の魂 」

2月分の最初のネタは「2.4(ニイテンヨンと読もう)東京決戦」、2月4日に行われたジャイアント馬場23回忌追善試合です。

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 2月4日に行われたジャイアント馬場23回忌追善興行、東京決戦の文字が!

日本のプロレス界の象徴だった馬場さんが旅立たれて早や23年、お亡くなりになった年の5月2日には東京ドームでの「引退試合」、2001年(1月28日)は同じくドームで三回忌、そしてまだ記憶に新しい一昨年(2月19日)には両国国技館での没後20周年の追善試合に足を運ばせて頂きました。
そして今回の23回忌ですが日取りを2月4日にしたのが何とも心憎い、そう、1982年の2.4、東京体育館で行われたジャイアント馬場VSスタン・ハンセンの初対決の日にあやかっているのです。

前年(81年)6月から新日本プロレスと全日本プロレスの間で仁義なき引き抜き合戦が勃発(FILE No.684,685参照)、新日本に先手を打たれアブドーラ・ザ・ブッチャーを引き抜かれた全日本は年末に超大物、スタン・ハンセンを抜き返しました。
この頃はファンも新日本(猪木)派と全日本派(馬場)の真っ二つに分かれ、SNSが無かったので雑誌の読者投稿欄などで熱くやりあっており、全日本に行ったハンセンに失望した新日本ファンが「さらば世界最強の男、これからは全日本のリングで馬場や鶴田程度のレスラーと両者リングアウトと言った試合を繰り返すのだろう。」と皮肉っていたのを覚えています(苦笑)。冷静に見てこの頃の馬場さんはとうに体力のピークを過ぎており(当時44歳)ハンセンを獲得したのは良いものの互角に戦えるのか?一部で疑問視されていたのも事実でしたが、迎えた東京決戦、馬場さんは不安を吹き飛ばす豪快なファイトでハンセン相手に一歩も引けを取らず限界説を吹き飛ばしました。
馬場さんの真の全盛期はインター王者として日本プロレスで絶対エースだった時代で、75年からプロレスを観始めた私は当然リアルタイムで知る由もありませんでしたが、初めて本当に力強い馬場さんの試合を観て目から鱗の思いでした。
この2月4日は同じ会場で一週間前(1月28日)に開催の新日本との興行戦争でした。この時代はテレビがゴールデンタイム(金曜夜8時)の新日本に対し全日本は土曜夕方(5時半)のハンディもあり勢いでは完全に新日本が上、実際に興行成績でも全日本は大きく水を開けられていました。
前年10月には同じ蔵前国技館で8日に新日本、9日に全日本と興行戦争があり、両団体とも超満員発表だったものの実際両日に足を運んだマスコミやファンによると明らかに新日本が上回っていたそうです。
今回の東京体育館、先攻の新日本はアントニオ猪木VSアブドーラ・ザ・ブッチャーのシングル初対決がメインでしたが、鳴り物入りで引き抜いたブッチャーを活かしきれず半年間猪木戦を寝かたのが結果として失敗でした。一方メンツに賭けてもう負けられない全日本は馬場VSハンセンを出し惜しみなしに投入、今回は新日本=満員に対し全日本は掛け値なしの超満員と逆転に成功しました。2月4日当日は天気も悪かったそうですが「俺が行かなきゃまた負けちまう」と熱心な全日本ファンは大雨の中を駆けつけ、興行戦争で一矢報いたのです。

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 久々にやって来た
東京体育館
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 後楽園ホールではプロレス伝導会のパネルと記念撮影

あれから39年が過ぎた2.4、流石に舞台は東京体育館ではなくお馴染みの後楽園ホールに変わりましたが、私は水道橋に行く前に千駄ヶ谷で下車し久々に東京体育館を見学してモチベーションを高めました。
私が90年代に足を運んだ東京体育館は既に新装なった後でしたが、出来れば馬場VSハンセンを始め多くの名勝負の舞台となった昭和の旧・会場に行きたかったです。
後楽園ホールに到着するとソーシャルディスタンス仕様ながら当日券なしの超満員の大盛況、何しろこのところコレガプロレスの10〜20人に慣れきっていたので人の波に酔いそうでした(苦笑)。

第3試合として当時の2.4東京決戦の映像を徳光和夫アナが実況する形式でジャイアント馬場VSスタン・ハンセンが再現、試合後には今回来日叶わなかったハンセンがVTR出演し当時の思いを語りました。
続いて行われた追善セレモニーでは中央に置かれた16文リングシューズを取り囲むようにリングの周りに多くの馬場さんの弟子や全日本OBが集結、皆がかつて全日本でお馴染みだった赤いジャージを着用していた事に感動しました。
第2試合に出場した大仁田厚選手も参列しましたが、大仁田さんだけは敢えていつもの邪道革ジャン姿でジャージを手に持っていました。翌日のイベントで話されていましたが、これが邪道流の馬場さんへのメッセージだったのでしょう。
ジャイアント馬場23回忌追善試合ダイジェスト こちらをクリック

翌日は新橋のジャイアント馬場バルで大仁田厚さんと渕正信さんのトークイベントに参加しました。

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 大仁田&渕とのスリーショットは不本意ながらマスク…

実は前夜の追善セレモニーの時、最前列にいた私に気がついた大仁田さんが盛んに「おっ、赤いマフラーしやがって」とばかりに合図を送って来たので覚悟はしていましたが、予想通りこちらを指して「この人、馬場さんの追善にこの格好(赤いマフラーの猪木スタイル)なんだよ。」といじられました(苦笑)。

二年前の両国では本当に猪木さんが来てくださいましたが、大仁田さんが邪道スタイルを貫いたのと同様、これぞ私なりの馬場さんへの供養なのです。
大仁田&渕組は第100代アジアタッグ王者チーム、店内には本物の日本最古参ベルトが登場しスリーショット撮影会がありましたが、残念だったのはマスク着用だった事…時期を見て再度仕切り直して欲しいものです。

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 店内展示のハンセンの
テンガロンハット&ドリーのスタジャンを拝借

更に翌日はやはり追善試合に参加されたザ・グレート・カブキさんのお店に久々に行って来ました。帰り際、預けていたスーツの上着をカブキさん自ら着せてくださり恐縮しましたよ(汗)。

冒頭に記したように過去何度か行われた馬場さんの名前を冠した大会も今回で一区切りとなるそうです。
大仁田さんはしきりに来年24周年をやろうと言っていましたがそれはともかくとして(笑)ジャイアント馬場の偉大な足跡を永遠に語り継ぐ為にも、またいつの日か追善の場を作って欲しいと思います。

<過去の日記>
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