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社長の経営日誌

孤高の天才 社長の経営日誌 田宮社長が好き勝手に織りなす独白です
  FILE No.776 2022.4.2  

「 夢の懸け橋 」

季節は春爛漫、4月から弊社も気持ちを新たに新年度に突入しましたが、このブログの更新日である4月2日と聞くと思い出すのが、1995年に週刊プロレスを発行するベースボール・マガジン社が東京ドームで開催した「夢の架け橋〜憧夢春爛漫」です。

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 「夢の架け橋」
週刊プロレス増刊詳報号

新日本プロレス、全日本プロレス、FMW、IWAジャパン、藤原組、UWFインターナショナル、リングス、パンクラス、全日本女子プロレス、JWP、LLPW、みちのくプロレス、剛軍団と当時の主要13団体が参加した「プロレス・夢のオールスター戦」、これを出版社が開催したのですから驚きですが、週の発行部数が公称20万部と専門誌としてはあり得ないレベルの驚異の売り上げを示していた当時の週刊プロレスにはそれぐらい怖いものなしの勢いがありました。
若い世代のファンを中心に一大ブームを巻き起こしていた平成(90年代)のプロレス界は空前の他団体時代、新日本と全日本が東西の横綱の如く二大メジャーとしてどっしり構え、デスマッチやルチャ・リブレを売りとしたインディペンデント(FMWやみちのくなど)、第2次UWFの分裂から誕生したいわゆるU系(リングスやUインターなど)、そして全日本女子を中心とした女子団体と大小合わせ20近い団体がひしめき合いバブル人気に沸いていました。
ドーム大会に参加した13団体のうち現存する(実質的に)のが新日本と全日本とみちのくだけ言うところに27年の月日を感じますが、今思い出しても週プロ誌上に掲載された告知の「メジャー、インディ、女子プロ、U系、1枚のチケットで全て見せます。」のキャッチコピーは秀逸でした。
何しろ当時のブームを支えた若いファンの大半は79年8月26日の新日本・全日本・国際のオールスター戦(FILE No.237241参照)をリアルタイムで知らない世代(かくいう私も)、平成において最初で最後になるかもしれないオールスター戦に飛びついたのも無理はありません。
余談ですが私のリスパック時代に同僚だった元女子社員もたまたま観に来ていたそうで、この日をきっかけにそれまで興味が無かったプロレスにはまったとか…、目覚めるのがもう少し早かったら私の東京在住時にいくらでも連れて行ってあげたのにね(笑)。

大会開催までの経緯、様々なエピソードは既に何度も活字になっており、とてもここでは書ききれない為割愛しますが、これだけの団体が集結するのですから当然ファンが期待したのは対抗戦や交流戦でした。
即ち団体の壁を越えて新日本の選手と全日本の選手が戦ったり、あるいはタッグ結成、袂を分かったUWF戦士たちがリングで再会、と言った普段は観られない夢の顔合わせです。
実際ドーム開催を決めたベースボール・マガジン社の経営陣(プロレスに関しては素人)は週刊プロレスの名物編集長にして今大会のプロデューサー、ターザン山本氏に「全団体の対抗戦をやれ!」と命じたそうですが、最初からマッチメイクがまとまるわけが無い事はマニアならすぐにわかる話、結局採用されたのは各団体から自前(じまえ)の純血カードが1試合ずつ提供される、言わば品評会方式でした。

当日は日曜日で私は大学時代の先輩と一緒に大阪から日帰りでドーム入りしましたが、気になっていたのが終了時間、14時開始とは言え13試合にプラスして大木金太郎さんの引退式もあり、相当の長時間興行となる事が予想されたからです。主催者側も我々のような地方からの「密航者」に配慮して、何としても21時前には終わらせないといけないと気を揉んでいたようです。
チケットは予想通り凄い勢いで馬鹿売れ、試合前夜には当日券を求めて徹夜組が出た程で今ではドーム規模でそんな事は絶対にあり得ませんから(そもそも徹夜で並ぶのが禁止)やはり90年代は凄い時代でした。

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 13団体集結!豪華オープ
ニングセレモニー

館内は人・人・人と立錐の余地もない超満員、出場全団体の選手が舞台に並んだ14時のオープニングセレモニーの段階から完全に出来上がっていました。
何しろもう27年も前の話で、しかも(昭和のオールスター戦と同様)団体同士の利権やテレビ問題が絡んで映像収録が無かった為、今改めて詳報号を読み返しても個別の試合についてはぼんやりとしか思い出せないのですが、それぞれの団体が自信を持って提出したカードですからファンの満足度は高かったと思います。

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 みちのくプロレスはベストメンバーによる6人タッグを提供
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 当時鎖国政策を打ち出していた全日本が逆転参戦
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 メインを務めた橋本真也とターザン山本編集長が
大会を締めた。

結局全試合終了は21時前だったので7時間興行となりましたがあまり疲れを感じませんでした。それぐらい内容が充実していたのでしょうし、何より自分も若かった、今では2時間でも座っているのが辛いです(苦笑)。
メインの新日本提供試合で勝利した橋本真也と主催側の週刊プロレス編集長のターザン山本さんが「ダーッ!」で締めたのが本には20時52分と書いてありますが、ドームの規制退場に付き合っていたら最終の新幹線に間に合わなくなる私たちは橋本の勝利が決まったと同時に席を立ちましたので、後のやりとりは観ていません。

今から3年前、両国国技館でジャイアント馬場さんの没後20年の追善&アブドーラ・ザ・ブッチャー引退記念として多くの団体が超党派で集まり、オールスター戦と呼ぶに相応しい大会(FILE No.620623「平成最後のオールスター戦」参照)が実現した時、こんなネット記事を読んで唖然としました。
「プロレス・オールスター戦と呼ばれる大会は過去3度実現、1度目は79年8月26日、2度目と3度目は東日本大震災復興チャリティとして行われた2011年8月27日(日本武道館)と2012年2月19日(仙台サンプラザホール)、今回は通算4度目となる。」 なんと、「夢の懸け橋」が黙殺されているのです!
ベースボール・マガジン社の主催で全ての発表を週刊プロレスの紙面でのみやった事で「私的な大会」と批判され、ライバル誌の週刊ゴングを始め殆どのマスコミが取材をしなかったとは言え「なかった事」としてしまうのは酷い話、何処の誰が書いた記事だったかも忘れましたがこれこそジャーナリズムの欠落ですよ。

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 当時購入した筆箱も今や
ボロボロ、しかし思い出は永遠…

今やすっかり変色しましたが、会社のデスクの引き出しには当時ドームで購入した筆箱がずっと入っています。
日本のプロレスの歴史からは抹消されている「夢の懸け橋」、それでも記憶の中の思い出を消す事は不可能、ドームに集まった6万人の生き証人の一人となれた事を誇りに思います。

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