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社長の経営日誌

孤高の天才 社長の経営日誌 田宮社長が好き勝手に織りなす独白です
  FILE No.794 2022.8.6  

「 さらば鬼神 」

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 鬼神の旅立ち…

先週掲載の通り、大仁田厚さんにお会い出来た5月29日、その戦友である”鬼神“ターザン後藤さんが天に召されました(享年58歳)。

全日本プロレスでデビュー(81年2月)し将来を嘱望されて海外遠征に出発(85年9月)したもののそのまま消息不明となった後藤さんは平成元年(89年)、かつての兄貴分だった大仁田さんを「ヘルプしたい」と旗揚げしたばかりのFMWに帰って来ました。

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 日本初の電流爆破デスマッチは週プロの表紙に
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 ある時は大仁田のパートナー、ある時は最大の敵としてFMWを支える

以後同団体の副将、NO.2として大仁田さんのパートナー、そして時には最大のライバルとして敵対、リングを下りればまだ新人ばかりだった若手選手の育成と現場の責任者とFMWの屋台骨として無くてはならない存在となりました。
大仁田さんとの日本初の電流爆破デスマッチ(90年8月4日)(FILE No.313参照)は週刊プロレスの表紙&東京スポーツ制定のプロレス大賞で年間最高試合(ベストバウト)を獲得し、さらに4年後に今度は大仁田さんと組んだタッグマッチ(94年3月2日 天龍源一郎&阿修羅・原 戦)でも同賞に輝くなど、メジャーとインディの間に高い壁があった時代に快挙を成し遂げました。

95年5月5日、川崎球場で大仁田さんの引退試合(2度目!)が決まり、対戦相手に後藤さんが選ばれました。この頃の大仁田&FMW人気は凄まじくチケットは飛ぶように売れていましたが、試合の10日前に衝撃の事件が待っていました。

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 大仁田引退試合の直前、
まさかの退団劇、一体何が!?

ターザン後藤、FMW電撃退団!! 直弟子で付き人も務めたミスター雁之助、市原昭仁も追随したこの離脱劇はかつての長州(新日本)や天龍(全日本)のそれに匹敵するインパクトでした。私は当初、引退試合を盛り上げる為のアングルと勘ぐっていましたがこれはマジも大マジ、しかしこれ程の大試合を直前になってキャンセルする事はプロとして無責任と批判されても仕方無いですが、裏を返せばそれだけの事があったと言う事でしょう。
会見に出席した後藤さんは退団の理由については固く口を閉ざし、どんなに批判されても、その後どんなに長い月日が流れても「それだけは墓場まで持っていく」とノーコメントを貫き、そして公約を守ったまま今回旅立つ事になりました…。

結局、大仁田さんの引退試合の相手はハヤブサ(FILE No.467参照)が代わりを務め事なきを得ましたが、近年当事者の一人であるミスター雁之助さんがYouTubeで当時の真相を語っており、興味深く拝見しました。
それはどちらかと言うと後藤さんと言うより自分の退団理由でしたが、雁之助さんの話と当時の報道(最も核心を突いていたと思われたのが週刊ファイト)を総合した私なりの結論は下記の通りです。

FMW内部で昔気質の後藤は煙たがられ若手選手たちとの間に世代間ギャップ、深い確執があった。
大仁田引退後、いよいよ歯止め役がいなくなる事で若手たちの間から後藤排除を求める突き上げがあった。
大仁田は板挟みとなり悩みぬいたがFMWの未来の為に苦渋の決断、引退試合の約二週間前、ある地方会場の控室で男子若手選手を招集、自分の引退後に後藤を辞めさせると宣言。
後藤の元付き人の雁之助は黙っている事が出来ず後藤にリーク。
後楽園ホールで試合の日(記録によると4月21日)ホテルの一室で後藤、雁之助、市原、新山勝利の選手4人とフロント2人の話し合いが延々と続くも平行線、後楽園への移動時間が迫り雁之助が「もう辞めます」と口火を切り、「おまえが辞めるなら俺も」と後藤、市原が追随。新山だけは「俺は後楽園に行って大仁田さんと話をする」と残留宣言。後藤ら3人は後楽園を欠場、翌22日に退団会見。

ファイトには後藤退団の報を聞いた選手の移動バスで歓声が上がったとの記事もあり、やはり根深い確執があったのは間違いなさそうです。
我々はずっと親分である後藤の退団に雁之助&市原がついていったとばかり思っていましたが実は逆、雁之助さんの決意が固いと悟った後藤さんが後輩だけを犠牲に出来ない(ましてや自分の事が原因)と同調したのでしょう。勿論後藤さん自身も自分を排除しようとする会社への不信感はあったでしょうが、それでも辞めるとまでは思っていたか?
後藤さんが退団理由を語らなかったのは後輩を庇った事もありますが、極論を言うと自身に「辞める理由が無かった」からでは無いでしょうか?

フリーとなった後藤さんはIWAジャパン、大日本プロレス、WARなどのインディを主戦場とし、「インディーの世直し」を宣言して自主興行も開催しました。
ここでターザン後藤の偉大な記録を紹介、空前の他団体時代とあって上がったリングが数十になるレスラーも珍しくない昨今ですが、旗揚げした団体(?)の数では後藤さんがダントツ、「真FMW」「R2W」「革真浪士団」「ターザン後藤一派」「(新)FMW」「スーパーFMW」…ただ名前が変わっただけじゃねえか!と誰か突っ込んで下さい(笑)。
因みに私は98年1月28日、大阪なみはやドームでの大会を観戦していますが、その時はR2W旗揚げ戦と謳っていました(笑)。

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 長い時が流れまさかの
再会実現

大仁田さんとはもう二度と交わらないだろうと思っていましたが、タッグながら2001年に6年ぶりの対決が実現、その後も何度か顔を合わせましたがこの時代はプロレス界全体が暗黒時代だった事やファンが入れ替わった事もあってか一騎打ちの機運は盛り上がりませんでした。しかしさらに時が流れ2009年になって完全和解成立!?かつての名コンビ、大仁田&後藤組が実現、最後の絡みとなったのは2010年5月5日、大仁田さん6度目(!)の引退試合でのタッグ結成でした。

後藤さんのテーマ曲と言えば有名な「汚れた英雄」、私実はこの映画を当時劇場で観ており(82年12月公開)この曲が気に入ってレコードまで買いました。
そもそもさして作品に興味があったわけでもないのに、何故わざわざ観に行ったのか? ずっと不思議でしたが、最近になってようやく謎が解けました。ストロング小林(金剛)さんのデビュー作「伊賀忍法帖」と併映だったのです(昔の邦画は必ず2本立てだった)。
映画で思い出しましたが、偉そうに一度も観た事がない初期FMWを知ったかぶりして語りながら、後藤さんのテーマがこの曲だった事すら知らなかった自称・映画&プロレス評論家がいてファン仲間たちと爆笑したものです(笑)。

近年はセミリタイア状態でスナックやラーメン屋に専念していた後藤さん(5年前、突如「新婚さんいらっしゃい」に出演されたのにはびっくり!笑)、一度お会いしに行きたかったのですが、コロナの影響で閉店状態でチャンスを失った事が残念でした。

順番が前後しましたがFILE No.790で速報させて頂いたようにこの約一か月後には青柳館長もお亡くなりになり、初期FMWの功労者の相次ぐ悲報に言葉を失いました(涙)。こうなったら、あまりに早く旅立ったかつてのライバル達の分まで、大仁田さんには”生涯現役”を貫いて欲しいです。

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