FILE No. 938 「88歳」

「88歳」

これまで周期的にプロレス業界の訃報をお伝えして来ましたが、とうとう身内の辛い知らせを書く日がやって来てしまいました…(涙)。

3月6日の夜、久しぶりに金沢に行き田井屋の田井社長、シーピー化成の上野専務&小川GMと会食させて頂きました。美味しい食事をご馳走になった翌朝、ゆっくり大阪に帰ろうとのんびりしていた時、養護施設にいた父が呼吸困難になり救急車で運ばれたと言う連絡があり、心配していたら一時間もしないうちに亡くなったと言う知らせが届きました!

親父は4年程前から体調が思わしくなく、何度か入退院を繰り返していました。
今年の1月3日に病院に見舞いに行った時も鼻に吸入器を付けた状態で、私の姿を確認すると小さな声で「おお。」とは言ってくれましたが、こちらが話しかけても殆ど反応はありませんでした。結局その日が最後となってしまいましたが、正直に言うとその時から覚悟を決めていた部分はありました。それでも家族で何の根拠も無く「せめてあと一年ぐらい持てば…」と話してはいましたが、Xデーは予想以上に早く、それも唐突にやって来たわけです。
奇しくも前夜ご一緒していた上野専務に「会長の様子は如何ですか?」と心配して頂いていたのですぐに一報を入れた後、慌てて身支度を整え大阪に出発、その間にも淡々と手続きは進んでおり、私がご遺体と対面したのは葬儀場所に決まったベルコの東生駒ホールでした。そのまますぐに担当者と打ち合わせ開始、本来喪主は母親ですが何しろ高齢とあって実質的には長男の私が代わりを務めなければならず、故人の遺志により身内、近親者のみの家族葬の形式で通夜が3日後の10日(月曜日)、本葬が11日(火曜日)と決まりました。
7日が金曜日だったので、当初は土日で全てが終わるのだろうと思っていましたが火葬場がこの日しか空きが無かった為です。

以下、初めて葬儀に関わっての雑感…、先ず思ったのが葬儀代の高さ、参列者実質20人前後の家族葬でも〇百万も請求が来ましたよ、これでは迂闊に死ねません(苦笑)。花やら装飾品、用意する食事etc…それぞれいくつかのランクはありますが、家族葬とは言え会社の創業者であり現職の会長となるとそれなりのものにしないと、の心理が働き、気が付くとみるみる値段が上がっていきました。相見積もりなど無いに等しい言わば相手の言い値、日々合い見積もりしかない業界にいますので羨ましい限りです。
そして驚いたのが火葬場の混み具合、聞くところによると人口の多い関東などはもっと酷く一週間以上待たされる事もザラだそうです。昔は亡くなった次の日ぐらいに通夜と言うのが私のイメージでしたが、今はそんなに亡くなる人が多いのでしょうか?
需要に対して供給側が過剰すぎる我が業界とはこれまた真逆、生まれ変わったら葬儀ビジネスに関わりたいです(笑)。

思わぬ形で土日が空いたので頭と心を整理し月曜日の朝礼の時間に社員に知らせ皆で1分間の黙祷を捧げました。実はここで私、あわや大チョンボをするところで「黙祷を…」と言うところを「追悼の10カウント」と言う寸前でした。(苦笑)!
私が死んだ時は本当に10カウントのゴングをお願いしたいですが、これも長年プロレス界の追悼セレモニーに参列したり映像を観て来た影響で完全に職業病(?)です(苦笑)。
その日に通夜、翌日に本葬と続き最後に私が喪主の代わりに挨拶させて頂きました。
スピーチが苦手な私、2012年のブログ(File No.287「スピーチ」参照)にいつかは親の葬儀で挨拶しなければならないのが今から憂鬱と記していましたがあれから13年、とうとうこの日が来てしまいましたよ…。
でも葬儀まで数日のインターバルがあった事は今思えば良かったです、これも10年以上前の話ですがお得意先の方の葬儀に参列した際、その時はお亡くなりになった直後だった事もあり挨拶に立たれた喪主の奥様がまだショックが大きく、泣き崩れてとても話せず見ていて気の毒でした。私の場合入念に?練習する時間があったので嫌いなスピーチもどうにか無事こなせました。

お棺の中には当社の会社案内を入れてあげました。自分が創った会社を誰よりも愛した人だったので、旅立ちに相応しい土産だったでしょう。私が社長になって2年目に作った通称日本一の(笑)会社案内、当初親父殿は「そんなものに金かけやがって!」とぶつくさ言っていましたが、いざ完成すると大喜びで家に持って帰り「繁人が会社案内を作ったぞ、嬉しいやろ、嬉しいやろ。」を連発、お母ちゃんが呆れていたそうです(笑)。
お棺に入れるものとして社員からは試算表の提案がありましたが「死んだ後まで金の心配させるんかい!」と化けて出そうなので却下しました(笑)。

暗い話題はこのブログに似つかわしくないので今回はこのぐらいにしておきますが、私は以前から88歳で人生の終着点を迎えようと思っていました。奇しくも父が88歳で旅立だった事でますますその思いを強くしましたが、私はあくまで父が出来なかった「元気で長生き」、「ぴんぴんぽっくり」が目標です。まあ私の場合最後は“孤独死”、死んで数日経ってから発見される可能性が大ですが(笑)。

「人は自分に与えられた使命を果たし役割を終えた事によって旅立つのだから、死は決して悲しい事ではない。」と言うのがアントニオ猪木の死生観でした。
今から64年前に父が創業した会社を発展させる事こそが私の使命、そしてその事が旅立った父が最も喜ぶ事と信じて、社業に邁進致します。