FILE No. 949 「シュツットガルトの惨劇(2)」

「シュツットガルトの惨劇(2)」
(前回からの続き)
ドイツ・シュツットガルトにどうしても来たかったのは、ここが1978年(昭和53年)11月26日(現地時間)、燃える闘魂アントニオ猪木と“地獄の墓堀人”ローラン・ボックが試合をした場所だからです。
76年にモハメド・アリと戦って引き分け、世界的なビッグネームとなったアントニオ猪木の下には世界中から挑戦状や招聘のオファーが舞い込んでおり、西ドイツ(当時は東西統一前)のプロレスラー、ローラン・ボックもその中の一人でした。
ボックは日本では全く無名の存在でしたが、アマチュアレスリングで68年のメキシコ五輪に出場(グレコローマンで5位入賞)などの輝かしい実績を引っ提げ73年にプロモーターのポール・バーガーのスカウトでプロレスラーに転向、「欧州の帝王」と呼ばれる存在となっていました。
その試合スタイルは相手の攻撃は一切受けず、時にプロレスの「暗黙のルール」をも逸脱、怪力から繰り出すアマレス仕込みのスープレックスで対戦相手を故意に潰すような妥協なき攻撃を見せると言う、猪木にとってはある意味最も危険な挑戦者の出現でした。
78年にポール・バーガーを伴って自費で来日したボックは2人の共催と言う形で欧州ツアー(日本で言うところのシリーズ)を組み、その目玉に猪木を招聘すべく直談判、「いつ何時、誰の挑戦でも受ける」をキャッフレーズとする猪木は挑戦を受諾しました。
猪木の欧州遠征は「イノキ・ヨーロッパ・ツアー1978」(日本では「欧州世界選手権シリーズ」と言われた)と題し、同年11月7日から29日までの日程で開催されましたが、三週間で西ドイツを中心にスイス、オーストリア、オランダ、ベルギーの5か国を回り22試合(!)をこなすと言う、超過酷なサーキットとなりました。
ツアー名とプログラムやポスターを見てもわかるように文字通りアントニオ猪木が主役、猪木は全日程でメインのシングルマッチをこなし、対戦相手にはローラン・ボック(計3度対戦)の他、かつて格闘技世界一決定戦で戦ったウイリアム・ルスカ(72年ミュンヘン五輪金メダリスト)、カール・ミルデンバーガー(アリとも戦ったプロボクサー)、一説にはある意味ボックより危険な相手と言われたウィルフレッド・デートリッヒ(55年メルボルン五輪、60年ローマ五輪、64年東京五輪メダリスト)…etc、一筋縄ではいかない強豪が勢揃いしました。
猪木はマネージャーの新間寿氏、用心棒役として藤原喜明を伴ってドイツ入りしましたが、慣れないラウンド制ルールに加え、リングコンディションが最悪、
「木の板の上にオガクズを敷いてキャンパスを敷いただけのクッション性の無い固いリング、あんなとこで受け身をとって猪木さんが怪我をしないかが心配だった。」(藤原・談)
そして、不幸にも藤原の悪い予感は的中します。
アルバム内の別表が猪木の地獄の遠征の全記録ですが、第1戦のラーフェンスブルクのルスカ戦で早くも延髄斬りの着地の際に膝をリングの板に打ち付けて負傷、さらに翌日の第2戦、ボックとの初戦でもフルネルソンバスターで右肩を破壊されてしまいます。
「固いマットに受け身の取れない落とし方をされて、右肩がおかしくなってしまった。軟骨みたいな血管みたいなものが飛び出して、ちょうど私が電磁治療器を持参していたから、それを使って殆ど徹夜で温めていた程の酷い状態だった。」(新間氏・談)
猪木は満身創痍の状態で戦い続け、12日・第6戦のベルリンでボックと2度目の対決も場外ドロー…試合結果を見るとドロー決着が多いのがわかりますが、これは負傷の影響で相手を極めきれなかったからです。
そして迎えた第17戦目、25日のシュツットガルトでのボックと通算3度目の決着戦ですが、この試合は日本からわざわざテレビ朝日のクルーが駆けつけてVTR収録、この年暮れの「ワールドプロレスリング」でオンエアされました(12月29日、同年最後の放送)。
今回の渡航を前にモチベーションを高めるべく久しぶりに映像を全編観返しましたが、猪木の技を殆ど受けずに危険なスープレックスを仕掛けるボックに対し、手負いの状態の猪木は延髄斬りやアリキック(一説によるとボックは打撃技に弱い?)で活路を見出し、グラウンドに引きずり込もうとする展開、試合は10ラウンドを戦い抜いて3人のジャッジの判定となり、結果は3人ともボック優勢勝ちで猪木は完敗となりました。
改めて観ても内容的には6-4から7-3でボックが攻めていたのでやむなしですが、あの状態でフルラウンドを戦い抜いた猪木のタフネスぶりは驚異的です。
当時この試合をテレビで観た全日本プロレスのジャンボ鶴田が「こんな試合を放送されたら困るよ。僕たちがやっている試合が八百長と言われかねない。」と周りにこぼした?との逸話がありますが、確かに見慣れた通常のプロレス的な技の攻防が無い異質な試合でした。
敵地とは言え、全盛期のアントニオ猪木が完敗を喫した事は日本のファンにはショックで、この試合は「シュツットガルトの惨劇」と呼ばれ伝説と化しました…。
(イノキ・ヨーロッパ・ツアー1978 こちらをクリック)
(次回へ続く)