FILE No. 952 「シュツットガルトの惨劇(5)」

「シュツットガルトの惨劇(5)」

(前回からの続き)

私の“ローラン・ボック観”を決定的にしたドキュメント小説「シュツットガルトの惨劇」
((作・桜井康雄、月刊ゴング82年4月号掲載)を避けて通る事は出来ないので、少々長くなりますがお付き合いください。

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1978年(昭和53年)11月24日(日本時間25日)、アントニオ猪木はオランダのロッテルダムを出て西ドイツのシュツットガルトへの道を走っていた。

ドキュメント小説
「シュツットガルトの惨劇」
出典:『月刊ゴング82年4月号』(日本スポーツ出版社)

堅いアイスバーンになったオランダ → 西ドイツへの幹線道路117を大型ベンツは時々はずみながら走っていく。
後部シートにマネージャーの新間寿と共に深々ともたれたアントニオ猪木はロッテルダムを出た時から堅く目を瞑り、一言も喋らなかった。
車がはずみ、跳ねる度に左肩(*実際は右肩)にズーンと電流で貫かれたような痛みが走る。
左肘(右肘)はガクンと音をたててはずれるような感じだ。
「社長、大丈夫ですか?」
猪木の表情が歪む度に新間が心配そうに声をかける。
「ああ、大丈夫だ。」
猪木はうめくように答える。大丈夫ではないのだ。
「欧州世界選手権シリーズ」と銘打たれた今度のヨーロッパ遠征でアントニオ猪木の肉体はガタガタになっていた。満身創痍などと言う生易しいものではない。
左肩は半脱臼の状態であり、首の骨(頸椎)もちょっとずれている。脊髄は二カ所おかしくなっている。左肘、右瞼、左足首、みな関節がガクンガクンと音をたてる程にダメージを受けている。
「欧州世界選手権シリーズ」は西ドイツのプロモーター、ポール・バーガーと「欧州無敵の王者」と言われていたWWU世界ヘビー級チャンピオンのローラン・ボックが呼びかけて
西ドイツ、オランダ、オーストリア三国(*実際はベルギー、スイスも加えた五カ国)を股にかけて開催され、アントニオ猪木は「招待」されて参加した。
昭和51年にプロボクシング世界の帝王モハメド・アリと東京で15ラウンドの壮絶な死闘をやってのけ引き分けた「マーシャルアーツ戦」がヨーロッパで宇宙中継された事もあり、西ドイツでもアントニオ猪木の名は大いに上がっていた。
その「名声」が猪木をヨーロッパへ招待させたのだが、欧州世界選手権シリーズは流石の猪木にもストロング・スタイル・ファイトの恐怖と凄みを骨の髄まで味合わせてくれていた。
(鍛え抜いている俺じゃなかったら、とっくに死んでいただろう。このハード・スケジュールを無敗のまま乗り切るのは俺以外の誰にも出来ない。)と猪木は胸の中で「誇り」を噛みしめるが、その無敗の快進撃の代償はあまりにも大きかった。肉体的にも精神的にも疲労の極限。ガタガタになり最悪のコンディションでアントニオ猪木は最後の戦いを「欧州の帝王」ローラン・ボックとの決着戦と言う形で迎えようとしていた。
「社長、眠ったらどうですか。何しろ1000キロ近く走るんですから」と新間がまた心配そうに言った。
「ああ」と猪木は答えたが、シートに張った皮の臭いと時々全身を電流のように走り抜ける痛みで眠れなかった。
「着いてすぐに試合ではなかったな。」
「はい、一日休養をとってその後です。向こうに着いたらゆっくりお休みになってください。」
(何を言ってやがる。休めるわけないじゃないか。どうせ前夜祭とか何とか、セレモニーに俺を引っ張り出すくせに。)
アントニオ猪木は必死に眠ろうとした。だが、瞼の裏側にはこれまでの戦いが次々に浮かんでは消える。苦しく激しい戦いだった。
(*ここから猪木の回想シーンとしてこれまでの試合が紹介されるが長くなるので省略、
猪木が手負いの状態になっていく様子が描かれる。)

シュツットガルトへ車を飛ばしながら猪木はこれまでの戦いのシーンを次々に思い浮かべ、その全ての戦いをじーっと凝視していたローラン・ボックの不気味な目を思った。
「アントニオ猪木、シュツットガルトに死す…」

(次回へ続く)