FILE No. 989 「1987年のクラッシャー・バンバン・ビガロ」

「1987年のクラッシャー・バンバン・ビガロ」

87年、マネージャー役のラリー・シャープを帯同し衝撃の初来日(※1)

先日道を歩いていたら頭に入れ墨を入れたスキンヘッドの外国人を見かけ(あっ、ビガロだ!)と思わず心の中で叫んでしまいました。
…と言うわけで今回は先月のキラー・トーア・カマタ(File No.986 参照)に続き、“入れ墨獣”クラッシャー・バンバン・ビガロの特集です。因みにカマタと同タイプ(小太りのハゲ!)が続くのは全くの偶然ですので(笑)。

クラッシャー・バンバン・ビガロが新日本プロレスに初来日したのは87年1月、シリーズ最終戦・2月5日の両国国技館のメインではいきなりアントニオ猪木とのシングル初対決が組まれ反則負けとなったものの(12分29秒)、その怪物的キャラクターとパワフルなファイトぶりでたちまち人気となりました。
4月には早くも再来日しましたが、シリーズのタイトル名が「ブレイジング・チェリーブロッサム・ビガロ87」、シリーズ名に外国人選手の名が冠せられたのは史上初の事で、新日本がいかに期待していたかがわかります。さらに6月にはこの年三度目の来日、しかもこの時は人気漫画雑誌のヤングジャンプの表紙にまで登場する人気ぶりで、これも快挙でした。このまま日本に定着してくれればさらに人気は上がったはずでしたが、ここでWWF(現在のWWE)に

メジャー漫画雑誌の表紙となる快挙(※2)

引き抜かれ、ビガロは日本から姿を消します。
一年の空白期間を経て88年8月から再び新日本に帰って来ましたが、不在期間中にビッグバン・ベイダーが初来日(87年12月)、外国人エースの座についた事が誤算で、ビガロはNO・2に格下げとなってしまいました。それでもトップ戦線で活躍したものの、猪木の闘魂復活七番勝負初戦ではわずか2分2秒でフォール負け(88年10月10日、後楽園)、翌89年は初の東京ドーム大会でソ連のサルマン・ハシミコフのデビュー戦の相手を務め2分26秒で(89年4月24日)、さらに8月の後楽園では長州力に2分38秒(8月25日)と秒殺の完敗も目立ちました。

翌90年、二度目の東京ドームで元横綱・北尾光司のデビュー戦の相手を務めたのは有名ですが(2月10日、9分58秒でフォール負け)ドームのような大舞台で2年連続、ハシミコフ、北尾と新人の相手を任されたのは、誰であってもビガロなら安心と言う絶対的な信頼感があったからでしょう。あの巨体で器用に空中殺法もこなし受けにも定評がある試合巧者ぶりはマスコミやマニア筋に高く評価されており、良い意味での便利屋だったのです。
勿論、日本で成功した外国人は例外なく“巧い”選手ばかりですが、それでもスタン・ハンセンやビッグバン・ベイダーに“試合巧者”と言う表現はピンと来ません。ビガロは典型的な試合巧者ゆえ、正直初来日の頃に見られた怪物性や凄みが影を潜めてしまった感があったのも事実です。

88年、1年ぶりに新日本に復帰(※3)
初の東京ドーム、米ソ対決でハシミコフに完敗(※4)
二度目のドームでは北尾にも…(※5)

今や伝説となっている91年、第一回目のG1クライマックスにはベイダー、ビガロ、前年(90年12月)に初来日したスコット・ノートンの外国人3強がエントリー、私は両国での三連戦を観に行きましたが初戦でビガロは2年前の秒殺の借りを返す長州に完勝(8月9日、10分10秒)、翌日の蝶野正洋戦は卍固めで敗れたものの(10日、12分38秒)これがまた“試合巧者”同士による名勝負でした。結局リーグ戦の成績は長州戦の1勝のみで終わったものの、週プロが「今回のG1での外国人MVPはベイダーでもノートンでもなくビガロ」と絶賛、私も全く同感だったので流石プロの記者はよく見ていると感心したものでした。

個人的な思い出としては確かこの年の10月頃、知り合いの女の子と新宿でデート?していた時、新宿京王プラザ(新日本外人選手の定宿)の近所を歩いていたら巡業バスと遭遇、中からビガロら選手が下りて来ました!当時はスマホカメラも無い時代、まして私は以前にビガロが近づいて来た少年ファンたちを追い払うシーンを目撃していた事もあり、怖くて?遠巻きに見るばかりでしたが、一緒にいた子は知らぬ者の強み?ビガロに接近してホテルのロビーでしっかり握手して貰っていましたよ(笑)。
前のトーア・カマタの回で「とんねるずの生でダラダラいかせて!!」から出演オファーがあったものの来日が成立しなかった話を紹介しましたが、なんとビガロは「仮面ノリダー」のコーナーに悪役で出演、番組プロデューサーがカマタの無念をビガロで果たしたのでしょうか(笑)?

92年に新日本との契約が終了したビガロは再びWWFにUターン、94年、WWF初の単独での日本進出となる「マニアツアー」に参加しました。
横浜アリーナ、名古屋レインボーホール、大阪城ホール、月寒グリーンドームで行われた同ツアーはいずれも館内がらがらの惨敗、WWEの黒歴史とまで言われています。私は名古屋と大阪を観戦しましたが、確かに入りは酷かったものの試合自体は面白かったです。
名古屋のメインではビガロが当時WWF王者のブレット・ハートに挑戦、シャープシューター(サソリ固め)で敗れたものの(5月8日、14分30秒)クォリティの高い好試合でメインを締めました。興行的に失敗に終わった理由は、まだ映像配信すら無かった時代ですからただ単に日本にWWFファンが育っていなかった事に尽きると私は思っていましたが、週プロのインタビューに登場したビガロは敗因をさらに細かく分析していました。
「アリーナのムードも最悪だったな。俺ならWWFにあるタイトルは全て持ってくる。ツアーの最初と最後は絶対東京、それにこのツアーならドインク(ピエロをモチーフにした選手)は要らない。日本のファンは目が肥えているから流すようなカードじゃ駄目なんだ。次にやるなら全て俺に仕切らせてくれと言ったんだよ。俺ほど日本のファンのニーズを知り尽くしている奴はいないからな。」
改めてこの人はプロレス頭の切れる人だなと感心したもので、結局実現しませんでしたが、ビガロがプロデュースするWWFツアーを是非観たかったものです。
翌95年、ビガロはレッスルマニアの舞台で(4月2日、ハートフォード・コネチカット)NFLアメリカンフットボーラーの超大物、ローレンス・テイラーと対戦しました。何しろ相手はプロレスラーでは無い“素人”、かつてのハシミコフ、北尾以上の難敵でしたが、見事に試合を成立させて世界最大の祭典のメインの重責を果たし、試合後の控室は選手・スタッフから称賛の嵐だったそうでまさに「便利屋」「試合巧者」の真骨頂でした。

レッスルマニアのメインでアメフトのスーパースターと試合(※6)

スペースの都合で詳細は省きますが(詳しくは自分で調べて 笑)晩年のビガロはあまり恵まれず不幸続きだったようで、2007年1月、45歳の若さでの訃報(死因不明)が届いた時は声を失いました(涙)。
今回、計9試合をセレクトしてお届けしましたが、私は猪木との初戦、米レッスルマニアを除く7試合を観戦しており、我ながらかなりのビガロ・ウォッチャーでした(笑)。
忘れえぬ名選手だっただけに是非一度お会いしたかったです…。

<写真出典先>
(※1)週刊ゴング(日本スポーツ出版社 87年2月20日号)
(※2)週刊プロレスモバイル(ベースボールマガジン 87年7月10号)  
(※3)週刊ゴング(日本スポーツ出版社 88年9月29日号)
(※4)週刊ゴング(日本スポーツ出版社 89年5月18日号)
(※5)週刊ゴング(日本スポーツ出版社 90年3月1日号)
(※6)週刊プロレスモバイル(ベースボールマガジン 95年4月28日号)