夏にスマホを買い換えてからLINEを始めまして、プロフィール欄の写真としてこのブログのタイトルを飾っているタイガー・ジェット・シンを使っていたら(右の写真)、当社の元女子社員から「これ誰ですかあ?」とのメッセージが来ました。
「インドの狂える虎、タイガー・ジェット・シンを知らんのかあ〜、この非国民が!」と返信したのは言うまでもありませんが(笑)考えてみたらシンの初来日は1973年(昭和48年)ですから、若い人が知らないのも無理ないか…。
73年5月4日、シリーズ開幕戦の川崎市体育館でテレビの生中継が行われている中、山本小鉄vsスティーブ・リッカードの試合に突如客席で試合を観戦していた私服姿のインド人が乱入し小鉄をKOしてしまうというハプニング、これこそがシンの衝撃的な初お目見え(この映像が観たい!)でした。
当初新日本プロレスは「来日予定のない選手が勝手にやって来て乱入した」と発表、結局、数日後からシンはシリーズに正式参戦を認められ、最大のライバルとなるアントニオ猪木との8年に渡る抗争の火蓋が切られたのです。
このシンの初登場については当時から偶然のハプニングなのか、それともアングル(演出)なのか?議論されましたが、元々シンは7月のシリーズに呼ぶ予定で話を進めていたのが間に入った人との連絡の行き違いから二ヶ月早く来日してしまい、折角来たのだからと開幕戦の会場に呼んで試合を観戦させていたところ、突如予定外の大暴れをしたというのが真相との事、但しこの時シンは業務用のビザを持っていなかった為一旦香港に向かわせてビザを取得させてから改めて日本にUターンさせて正式参戦となったそうです。
前年(1972年)3月の旗揚げ以来一年間テレビなしで興行を行っていた新日本プロレスですが赤字が嵩み累積した負債は1億円にも上っており、この4月からスタートした待望のテレビ放映がもう一ヶ月遅れていたら確実に潰れていただろうと言うぎりぎりの状態でした。しかしテレビは始まったものの有名な外国人選手は全て馬場の全日本プロレスに押さえられていた苦しい状態は変わらず、そんな折絶妙のタイミングで全く無名のシンが予想外の活躍を始めた事により新日本の興行人気にたちまち火がつきました。
同年11月にはこのブログでも検証した「新宿伊勢丹前事件」(FILE No.247〜251,362,363参照)で世間をあっと言わせ猪木とシンの戦いは回を重ねるごとにどんどんエスカレート、初期の新日本プロレスの最大のドル箱カードとなって行ったのです。
1975年(昭和50年)からプロレスにはまりだした私にとっても、初めて見るシンのインパクトは絶大でした。
まずタイガー(虎)にジェット戦闘機のジェット、まるでSFヒーロー番組に出てくる悪のヒーローを彷彿させるネーミングが子供心に斬新でした。
因みに日本ではタイガー・ジェット・シンで通っていますが、ネイティブな英語の発音ではタイガー・ジート・シンが正解だそうで本人曰く、ジート・シンとはコンカー・オブ・ザ・ワールド(世界征服)の意味があるとか…。
この頃の新日本プロレスはエースで絶対王者が勿論アントニオ猪木、副将格のNO.2が坂口征二、そしてNO.3がストロング小林という布陣でした。
75年の来日初戦でシンはストロング小林と激突(この試合が私が見る初のシンの試合!)、詳しい試合結果は覚えていませんが内容ではシンの圧勝だったはずです。
そして翌週の放送では坂口征二と対戦しここでも場外戦でめった打ちにしてリングアウト勝ちを収めました。 NO.3、NO.2が毎週一人ずつ倒されていくという今思い出しても絶妙のマッチメイクですが第三週目はいよいよ総帥・猪木が登場、シングル対決のタイトル戦を翌週に控えた前哨戦のタッグ対決でした(アントニオ猪木、星野勘太郎 vs タイガー・ジェット・シン、マイティ・ズール)。
試合の前半戦は小兵の星野が空中殺法を駆使して外人組を翻弄したものの途中で捕まってしまい血だるまにされて戦闘不能状態となり、猪木が二人を相手に孤軍奮闘したものの最後は力尽きてフォール負けという波乱の結末、試合後の猪木は失神した星野を介抱しながらマイクを掴んで「来週を見ていろ!」と絶叫、翌週への期待感はいやがおうにも高まり第四週目、とうとう決着戦の日がやって来ました。
3月13日、広島県立体育館、NWF世界ヘビー級王座決定戦がその舞台です。
何しろこの頃は「ウルトラマン」や「仮面ライダー」と同じ感覚でプロレスを観ていましたので、「さあ今日こそは我らが正義の戦士アントニオ猪木が悪の権化タイガー・ジェット・シンを成敗してくれる!」と期待してテレビの前に陣取ったのですが、結果はブレーンバスターで叩きつけられた猪木が3カウントの完全フォール負け!(19分24秒)
私にとってはウルトラマンが最終回でゼットンに敗れたのと同じぐらいのショックでした。遂に宿敵を破ってベルトを腰に巻き勝ち誇るシンと、コーナーで悔しそうにシンを睨み付ける猪木の対照的な表情が強く心に残っていますが、この翌週猪木は蔵前でリターンマッチに挑むも両者リングアウトのドロー、5月には敵地カナダまで乗り込み(*シンはカナダ在住)挑戦するも反則裁定でベルト奪還ならず、6月の蔵前で三度目の挑戦にしてようやくフォール勝ちで王者に返り咲きました。
この三度のリターンマッチもテレビで観たのですが、どうも私の中では印象が希薄です。
それぐらい最初の広島の猪木完敗の衝撃が大きかったのでしょう。
さて、シンの代名詞と言えば何と言ってもサーベルですが、シンにサーベルを持たせるというこのアイディアの発案者は誰だかご存知でしょうか?
実は言いだしっぺは何と猪木さんなのです! 初来日前、送られてきた宣材用の写真でのシンは口に小さなナイフを銜えていたそうで、それを見た猪木さんが冗談半分で「何だよ、どうせなら派手にサーベルでも持たせろよ。」と言ったところ、真に受けた社員が本当にサーベルを調達して来たのだそうです。
そう言えば80年代のラジオの深夜放送でよくビートたけしがシンのサーベルをネタにしていました。「何で凶器のサーベルを堂々と持って入って来れるんだよ!しかもサーベルで突き刺すのかと思ったら、柄の部分で殴るんだよな。」と鋭いツッコミ(笑)、実際にかつてはテレビ視聴者から「何で凶器を持って入場して来るのを審判は黙認しているのか!?」と真剣な苦情が局にあったそうです。
ミスター高橋レフェリーの言い分は「あのサーベルはシンが着用しているターバンや民族衣装と一緒で入場時のコスチュームの一部だ。つまり猪木や坂口が着ているロングガウンと同じなのだから制限する事は出来ない。 確かにシンはサーベルを凶器として使っているがそれならばガウンだって紐を凶器として使おうと思えば使える。サーベルを禁止するなら猪木や坂口のガウンだって禁止しなければならない。」何となく昭和チックでいいですね(笑)〜。
シンがサーベルの柄の部分で相手を殴る事に関しても昔からよくギャグのネタにされていましたが、シンの狂乱ぶりを見ているといつ本当にサーベルを突き刺すかとドキドキはらはらもので見ていたものです。そしてプロレスは殺し合いじゃないのだから敢えて柄で殴るんだろうなと子供心に何となく納得していました。あのサーベルは装飾品なので実際には刺さらない事を知ったのはもっと大人になってからの事です(笑)。
ずっと昔、テレビの「なんでも鑑定団」で羨ましい事にシン本人からもらったというサーベルの持ち主が出ていて40万円(!)もの値がついていましたが流石に本物の入手は無理でしょうから(仮に売ってくれると言ってもそんな金ね〜よ!)同等品を探そうと行動を開始しました。時は丁度一年前、2013年の秋が終わり冬の気配が近づき出した頃です。
サーベルと言えば勿論フェンシングの道具、そこでまずフェンシングの防具&道具の専門店のサイトにアクセスしてみましたが色々な形状のサーベルが紹介されているものの、肝心のシンのサーベルと同じ物が見つかりません。
シーピー化成岡山支店の高橋支店長が趣味でフェンシングをされているという情報を掴んだので、丁度11月の金田一耕助イベントでお会いした同じ岡山支店の野内さんを通じて聞いてもらいましたがやはり心当りが無いとの事、よく考えてみりゃ前述のようにシンのサーベルはあくまで装飾品、そちらのルートを当たるべきだったのです。
そこで今度はサーベルを始めとした西洋剣の装飾品を扱っているお店や業者のサイトを片っ端から当たりましたがここでも同じ物は見つかりませんでした。
予想外に難航するサーベル探し、そんな時、数年前の週刊プロレスで重要なヒントを見つけました。
当時の新日本プロレスの営業部長、大塚直樹氏がインタビューでシンのサーベルに関するエピソードを語っていたのです。 面白いので少し採録してみましょう。
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実はあのサーベルは僕が渋谷の道玄坂の装飾品店で毎回、買い求めていた物だったんです。
勿論、シンが試合で使うなんて一切言ってません。毎回、「飾るんだよ。」と言って一度に2本買うんです。どこにでも売っている物ではなくて店の特注品でした。
ところがある日、そこの店主がテレビでシンの試合を見たらしく、そのサーベルが自分の店の物とそっくりという事に気づいてしまいました。
「大塚さん、タイガー・ジェット・シンっていう悪役レスラーがうちのサーベルと同じ物を使っているんですよ。腹が立ってしょうがない!」と怒っているんです。
何しろ自分のところの特注品だからすぐわかってしまったんですね。
「えっ、そうなんですか?」ととぼけていたら店主は「大塚さんはうちで買うサーベルをどうしてるんですか?」と聞いてくるので「新築祝いにあげてるんです。」と誤魔化した。
「ああ、新築祝いなら喜ばれますよね。だけどシンが同じ物使っているの知ってました? プロレスは見た事ないですか?」「プロレスなんて見た事もないですよ。」ととぼけて結局最後まで黙っていました(笑)。
そうそう、シンは飛行機に乗る時も機内にサーベルを持ち込もうとしてトラブルになった事がありましたね。 福岡に行く羽田空港のゲート入口の手荷物検査場でサーベルを持って入ろうとしたんです。当然「これは何だ?」となりますよね。
シンは「これはサーベルだ。俺は猪木を殺すまでサーベルは手放さない。」と興奮しちゃって何を言っても聞かないんです。そこで僕が係員に「このサーベルは模擬刀なんです。 本物じゃないから持たせてやってくれませんか。」と頼んだのですがどうしてもダメなものはダメ、しかしシンも言う事を聞かない、これではラチが開かないわけですよ。
結局トランペットを入れるような木箱があってそれに入れて機内に運ぶという事になった。 そしたらシンが今度は「いつ猪木が来るかわからない。猪木が来たらやっつけるから俺の近くに置いておけ」と言い出すんですよ。それでまたひと悶着あって結局フライトアテンダントが預かる事で事態が収まってようやく飛行機が飛んだんです。
シンは我々や一般の方の目を意識してアピールの為にわざとそんなふうにやっているんじゃないんですよ。 常にサーベルを持っていないと怖かったんじゃないかと僕は思います。
当時はテレビ視聴率が20%を超えて完全に悪役として定着しているからいつ後ろから襲われるかわからない、だからシンはシンなりに真剣だったんだと思います。」
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稀代の悪役を演じたシンの凄まじいプロ魂には改めて敬服しますが、大塚氏の貴重な証言によって遂にサーベルの出元が判明!さあ、渋谷の道玄坂にレッツ・ゴー!
…ん? 冷静になればこれって1970年代の話…案の定ネットで検索しても渋谷にそれらしい装飾品店は見つかりませんでした。
40年の歳月の重みを感じましたが、それならとやはりネットで見つけた何軒かの西洋剣の装飾品屋に「特注品でサーベルを作れないか?」と問い合わせるも返って来るのは「対応できない」の返事ばかり、これでサーベル探しは完全に手詰まり、暗礁に乗り上げてしまいました。
さあ、私の長年の夢、狂虎のサーベルは見つかるのでしょうか!?
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(次回へつづく) |
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