FILE No. 811 「最後の闘魂(1)」
「最後の闘魂(1)」
書くのも辛いですが今週はどうしても避けては通れない話題です…。
忘れもしない10月1日土曜日、朝9時を回った頃、休日の日課である近所の喫茶店でモーニングを頂こうと席に着いた時、スマホの画面に流れたニュース速報に目を疑い凍りつきました。
「アントニオ猪木さん死去」!!
これまでにも辛い知らせを聞く機会は数えきれない程ありましたが、この人の訃報だけは絶対に聞きたくなかった…まさかそれがプロレスデビュー62周年(昭和35年9月30日、ジャイアント馬場と同日デビュー)を迎えた翌朝に届くとは…。
勿論、ここ数年の病状から自分自身覚悟を決めていたところがあったのは否定しません。
それでも不死身のアントニオ猪木が死ぬわけがない!と何処か楽観視していた部分もあり、あまりに唐突に届いた知らせにショックで言葉も出ませんでした。
この時点ではまだ情報が少なくて実感が湧かず、それに日頃から「人間は皆死に場所を探して生きている。」「元気がなければ旅立ちもできない。」「旅立った人をもっと笑顔で送り出してやるべきだ。」と猪木さん独特の死生観に感化されて来たので(決して悲しんではいけないんだ。)と無理矢理に自分に言い聞かせていた部分もありました。ちょっとこの時の心境は言葉には表せません。
午後になって少しずつ情報が増え嫌でも現実を受け止めざるを得ませんでしたが、その日の夜は難波のプロレスバーカウント2・99で8月に引退したGamma選手のトークイベントに行く予定が入っていました。
あまりの脱力感に全く何もする気が起こりませんでしたが、3年前に猪木さんの奥様がお亡くなりになった時「猪木さんの予定には絶対穴を空けないで。」と言い残し、猪木さんは気丈に奥様の死去の翌日に「さんまのまんま」のテレビ出演をこなしていた事を思い出しました。
やはり前もって決まっていた予定をキャンセルするのは猪木イズムに反するとの思いで出かけていくと、カウント2・99のマスターから「いや~、今日は田宮さん来ないかと心配していましたよ。」と言われました。イベントの方は場内爆笑の連続で盛り上がり、私も一時的にですが気が紛れました。Gamma選手とマスターには感謝です。
長い一日が終了、その日は一晩中まんじりともしませんでしたが、それでも明け方近く浅い眠りについて目が覚めた時、猪木さんが亡くなったのは悪夢だったのか?の錯覚に見舞われました。そうであってくれればどれほど良かった事でしょうが非情な現実は変わりません。その日も数々の報道に目を通しながらぼんやりと一日が過ぎました。
週の始まりである月曜日、アントニオ猪木のいない現実を受け止め、何とか前向きに歩みださねばならないと歯を食いしばるように出発、会社に着くと額に入れて飾っている宝物、猪木さんのサイン色紙と道の詩に黙礼しました。
この週の水曜日(5日)にはシーピー化成さんの代理店会であるCPJ会があり、ご出席の方々から口々に「お悔やみ申し上げます。」「田宮さん大丈夫ですか?」と声をかけて頂き、最後の挨拶はこの会のお約束、天国に届けとばかりに私の「1、2、3、ダーッ!!」で締めさせて頂きました。
この週は新聞、雑誌、テレビ、ラジオと各メディアで報道や特集が相次ぎ、今更ながらアントニオ猪木の“稀代の英傑”ぶりを実感しましたが、中でもお亡くなりになる10日前(9月21日)に収録された公式YouTube「最後の闘魂」を視聴した時は涙が止まらなくなりました。
「『感謝』とか色々な言葉があるけど、でも結局は『ありがとう』…この中に全部含まれている。だから『ありがとう』はいい言葉だなと…。」
これまで猪木さんから元気と勇気とエネルギーを貰って来た事を思えば、我々の方こそ「ありがとう」ですが、最近自分自身もっともっと多くの人に「ありがとう」と感謝の気持ちを伝えないといけないと節に思っています(根がシャイなもので 笑)。
本当はもっと立派な追悼文を書かないといけないのですが、未だ気持ちの整理がつかず(これを書いているのは10月末)この辺が限界、いつも以上の駄文で申し訳ありません。
私はこれまで88歳まで元気で長生きする事を目標として来ましたが、今回猪木さんの旅立ちを受けて、どんな事をしてでも79歳までは頑張ると決意しました。
元気で長生きして79歳になったら、必ず猪木さんの墓前で「会長、とうとう追いつきましたよ。」と報告するつもりです。
猪木さん、本当に長い間お疲れさまでした。ありがとう…。
最後に当ブログでは初公開のものも含め、猪木さんとの思い出の写真をノートリミング&ノーカットで全て公開させて頂きます。
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