FILE No. 915 「幻の国際プロレス」
「幻の国際プロレス」
本日は13日の金曜日、当ブログはまだまだ10月のネタが続きます。
この月の4日はかみーゆこと上福ゆきちゃんの定例イベント、今回はなんと赤井沙希ちゃんがゲストとあって予想通りの大盛況、文字通りカネの雨が降っていました(笑)。
私としては長年夢見ていたスリーショットが実現して感無量でした。
(豪華ショット集 こちらをクリック)
翌5~6日は国際プロレス大特集? 5日はアポロ菅原さん、6日にはマイティ井上さんのトークが行われました。熊本のアポロ菅原さんのお店には昨年2度も訪問させて頂きましたが(File No.843, 863 参照)あれから早や一年、待望の東京イベントがようやく実現しました。菅原さんのトークには井上さん、翌日の井上さんの時には菅原さんとお互いがゲスト参加、さらにそこに高杉正彦さんも加わり、国際プロレスOB会の2日間でした。
さて、ここからは国際プロレスの思い出話と行きたいところですが…残念ながら私、同団体を生観戦はおろかテレビ中継すら一度も観た事がありません。
1966年の結成(旗揚げは翌67年、当時アントニオ猪木のいた東京プロレスとの合同興行として)から解散まで15年の歴史を持ち、曲がりなりにも同じ時代に生きながら一度も観る事が出来なかった事はプロレスファンとして痛恨の極みです(涙)。
プロレス評論家の流智美さんを始め、私より10歳前後年上のマニアの方は今も国際に思い入れの強い方が多く、そう言った方々のお話を聞く度に悔しさが湧いてきます。
75年初頭、金曜夜8時の「ワールドプロレスリング」(新日本プロレス)をきっかけにプロレスに目覚め、やがて土曜夜8時の「全日本プロレス中継」も視聴するようになりました。その頃書店で小学館の「プロレス入門」を購入、そこで初めて日本に国際プロレスと言う“第3団体”がある事を知りました。
国際のテレビ中継はこの頃テレビ東京系列でしたが、ネット局が少なく大阪では放送されていなかった為、私にとってはずっと幻の団体でした。後年になって調べたところ、78年頃から大阪でもUHFのサンテレビで観られるようになったようですが、運悪くその時期は私のプロレス冬眠時代、80年代に入り再びプロレス熱が復活した時にはテレビ中継は既に打ち切られており、これがとどめとなって81年8月、国際プロレスはとうとう力尽き、私とはすれ違いのまま、永遠の幻となったのです…。
プロレスマニアにとっては全くの蛇足ですが、「日本人エース対決」「女子部門」「デスマッチ」「選手別テーマ曲」…etc、今では常識になっている事の大半は国際がパイオニアで、今になって改めて世界的な団体だったと評価されています。
にも関わらず後発である新日本プロレスや全日本プロレスに追い抜かれ、“第3団体”(吉原代表はこう表現される事を嫌ったそうです)に甘んじてしまったのは、やはりアントニオ猪木やジャイアント馬場に匹敵する絶対的エースのスーパースターを作れなかった事が最大の要因でしょう。
歴史にIFが無いのは百も承知の上ですが、ここからは私の妄想…実は国際プロレスが天下を取って生き残る、最大にして唯一のチャンスがありました。
時は1971年、この頃のプロレス界は一時期は前代未聞、日本テレビとテレビ朝日の2局放送を実現した日本プロレスが黄金時代の真っ只中でした。
当時の国際もTBSでゴールデンタイム放送があったものの、馬場と猪木のBI砲をエースとした日プロには到底太刀打ち出来ず、テレビ視聴率、興行人気とも大きく水を開けられていました。
しかしそこに起こった日プロの内紛、クーデター未遂事件の余波で同年12月、猪木が追放処分となったのです。ここから猪木はゼロからの出発で新日本プロレスを旗揚げするわけですが、もしこの時、国際が猪木を獲得していたら!?
冷静に考えて見てください、大差をつけられている競合先の2大エースの一人がフリーになったのですよ。折角ゴールデンタイムのテレビ中継がありながら国際に欠けていたのは視聴率を稼ぐスーパースターの存在、そして数字が取れるのはBIの二人だけだったのですから、もし私なら形振り構わず絶対猪木を獲りに行きます。例えどれだけお金がかかろうとも元が取れていたはずだからです。
しかし、国際の吉原代表はこの最大のチャンスに「猪木は人間的に信用できない。」と興味を示しませんでした。旗揚げ時の東京プロレスとの合同興行で金銭トラブルがあった事が理由でしたが、ここでビジネスと割り切る柔軟さがあれば…。
その後の歴史を見れば、この2年後にはTBSから見放され遂に中継打ち切り、幸いにも半年後にテレビ東京の放送が始まったもののネット局や放映料とも大幅減となり、さらに猪木が新日本プロレスを、やはり日本プロレスを飛び出した馬場が全日本プロレスを旗揚げすると(日プロは崩壊)、国際は老舗であるにも関わらず後発2団体に追い抜かれました。特に新日本との企業戦争ではエースのストロング小林、期待のホープだった剛竜馬を引き抜かれるなど徹底的にやられました。結局、国際は新日本に敗れて潰れたも同然ですが、猪木を獲得して新日本の旗揚げを阻止していれば崩壊を回避出来たのです。とにかく生き残るにはTBSのバックアップがあるうちに何が何でも軌道に乗せてゴールデンタイムを死守するべきでしたし、万一TBSに切られても猪木がいればテレビ朝日が放っておくわけがありません。
私の妄想話、国際に思い入れのある人たちからは「冗談じゃない!」「元々国際にいる選手が反発するに決まっているだろ!」「声をかけられてもそもそもプロモーター志向の強い猪木が行くわけない。」と散々反発されそうです(苦笑)。
勿論猪木にはエースの地位だけでなく、マッチメイク権、そして近い将来の社長の座を約束(吉原代表は会長に)しなければなりません。
外から来た人が自分たちの上に来れば揉めるのは一般社会も同様ですが、プロレス界は人気と実力の世界、それに今のような多団体時代と違い、辞めたら海外に行くか廃業するしかないので結局は従うしかなく、全ては時間が解決したでしょう。実際、猪木が東京プロレスから日本プロレスにカムバックした時も、古株の選手たちは内心面白くなかったでしょうが、誰よりも練習し道場でのスパーリングでダントツ強かった猪木に誰も表立って文句を言えませんでした。
元々吉原代表はヨーロピアンレスリングを理想として国際を旗揚げした(後のデスマッチ路線は真逆)そうですから猪木とレスリング観は合っていたはずで、猪木がエース兼社長になると言う事は、早い話国際が事実上その後の新日本プロレスと化すわけですから、もしこれが実現していたら国際は令和の現在も、日本で最長にして最大の団体として続いていたと私は確信しています。
国際をリアルタイムで観た事もないにわか(苦笑)の妄想話はこれぐらいにして、イベント当日の写真をお届けします。
(2日間のツーショット集 こちらをクリック)
【 追 伸 】
この回を入稿した直後、衝撃的な訃報が飛び込んで来ました。
本文中にあるように10月5~6日にお会いしたばかりの“和製マットの魔術師” マイティ井上さんが11月27日に心室細動でお亡くなりになったのです!!(享年75歳)
まさかイベントを伝えるブログに訃報を同時に掲載する事になるとは…わずか一か月半前にお元気な姿を見たばかりだけに全く信じられない思いです(涙)。
井上さんと言えば大のアントニオ猪木&新日本プロレス嫌いで有名でしたが、奇しくも今回は猪木賛辞に終始となってしまいました(苦笑)。しかし、井上さんが猪木さんや藤波さんと全盛期同士で戦っていたら素晴らしい名勝負になっていたのは間違いありません。
マイティ井上さんのご冥福を心よりお祈り致します。