FILE No. 997 「超飛龍55周年~神の領域(1)」“炎の飛龍” 藤波辰爾デビュー55周年記念

「超飛龍55周年~神の領域(1)」“炎の飛龍” 藤波辰爾デビュー55周年記念
5月9日、”炎の飛龍“藤波辰爾選手がプロレス・デビューから55周年を迎えました!
当ブログでも過去、「超飛龍45周年」(File No.529, 530 参照)
「超飛龍50周年」(File No.819 参照)とお届けしましたが早いものであれからもう5年ですか…。
1970年(昭和45年)、アントニオ猪木に憧れて17歳でプロレス界に飛び込んだ藤波少年、身長こそ180cm(公式)と当時の入門規定(175cm)をクリアしていたものの、2m9cmのジャイアント馬場を筆頭に190cm以上がゴロゴロしていた時代、明らかに小さく、しかも体重が62Kgしかないひょろひょろの子がまともに正面から入門を直訴しても100%門前払いだったでしょう。
それにしてもその藤波さんが現在では大型扱いされているのですから、プロレス界はどれだけ小型化しているのでしょう(苦笑)。
一計を案じた藤波さんは同郷の先輩である北沢幹之選手がたまたま怪我の治療で帰郷しているとの情報を掴みアタックをかけました。同郷と言っても二人は一面識も無いアカの他人、誰かの紹介があったわけでもなく、アポなし飛び込みでの訪問でしたが熱意が通じたのか、そのまま日本プロレスの巡業に合流する事になったのですからこれはまさに運命でした。
以前に藤波さんにお聞きしたところ、北沢選手が帰郷している情報は藤波さんのお兄さんが何処かから聞きつけて来たとの事でしたが、何処に泊っているかはわからず、藤波さんは近隣の旅館を片っ端からしらみつぶしに回って探し当てたそうです。
そう言えば私のところにもごくたまに大学の後輩を名乗る連中から営業電話やメールが来るのですが(主に証券マンが多い)顔も名前も知らない奴から馴れ馴れしく先輩呼ばわりされたくないっての(笑)!まあこういう連中はあくまで物を売り込むのが目的、藤波さんとは純粋さも熱心さも覚悟も全く違います(笑)。
こうして入門を許された藤波さんでしたが、思えば大恩人の北沢さんが猪木さんの付き人だったのもラッキーでした。アントニオ猪木、山本小鉄、北沢幹之、柴田勝久、木戸修…三度の飯より練習が好きで皆からも一目おかれる存在だった猪木さんの派閥に入った事で、あまり露骨にいじめられたり追い出されるように仕向けられる事も回避出来たのではと推察しますが、もし藤波さんが馬場さんの付き人に任命されていたらどうなったか?
その後の歴史を見てもわかるようにこの時代の選手と付き人はまさに親分子分の関係、そうなると藤波さんは自分の意思など関係なく、否応なしに全日本プロレスに行っていたかもしれません。まあ、それでも藤波さんの事ですから自分の信念を貫き猪木さんの下に走ったでしょうが…。
因みに馬場さんは派閥が出来る温床となるのを嫌って、全日本プロレスでは付き人制度を撤廃したそうです。
日本プロレスを追放された猪木さんは新日本プロレスを旗揚げ、当然藤波さんもそこに合流しましたがこの時代の退団はヤクザの組抜けと同じ、藤波さん自身インタビューやトークショーで度々語っていますが「日本プロレスの合宿所から自分の荷物や預かっていた猪木さんのガウンを4つのサムソナイト(スーツケース)に詰め込んで夜逃げ同然に抜け出したが、先輩に見つかると半殺しにされるから怖かった。今でもどうやって一度に4つも荷物を運んだのか不思議で仕方ない(笑)」
旗揚げ戦が正式に決まると藤波さんもチケットを売る為にあちこちの会社に飛び込み営業したそうですが「全然売れなかった」(笑)。まだ18歳の子供がプロレスのチケットを売りに来たのですから皆さんびっくりした事でしょう(笑)。
当時の新聞や雑誌に「前途多難の新日本プロレス、藤波などいても戦力にならない。」と揶揄され悔しい思いをしたそうですが、確かにテレビ中継も無く、有名な外人選手も呼べず、実質スターが猪木さん一人ではお先真っ暗と見られても仕方がありませんでした。
実際、一年目の新日本プロレスは悪戦苦闘の連続、累積赤字は膨らむ一方で崩壊は時間の問題でした。一方、ジャイアント馬場も日本プロレスを離脱し全日本プロレスを旗揚げ、馬場と猪木と言う二枚看板がいなくなった事から日本プロレスが先に息絶え消滅、坂口征二らが新日本に合流し、日本プロレスを放送していたテレビ朝日が新日本プロレスに鞍替えした事で奇跡の逆転劇が起こりました。
「日本のプロレスの夜明け」(新日本初回放送時の舟橋慶一アナの名台詞)、金曜夜8時「ワールドプロレスリング」伝説のスタート、息を吹き返しやっと軌道に乗った新日本プロレスに黄金時代が到来しました。
後輩である新人も増え戦力も充実、若手の旗頭的存在となった藤波さんは75年に海外武者修行に出発します。
西ドイツを皮切りにアメリカではカール・ゴッチに鍛えられ、NWAミッドアトランティック地区と言われたノースカロライナ州シャーロット、またメキシコへも転戦と、海外で孤独なサーキットを続けていた藤波さんに人生最大のチャンスが訪れました。
78年1月23日、ニューヨークのMSG(マジソン・スクエア・ガーデン)の大舞台でWWWFジュニアヘビー級王座に挑戦するチャンスに恵まれたのです。
日本での放送の為テレビ朝日のクルーが収録に乗り込み、大舞台に燃えに燃えた藤波さんは「それまで一度も使った事が無かった」必殺技のドラゴン・スープレックス・ホールド(飛龍原爆固め)をぶっつけ本番で初公開、カルロス・ホセ・エストラーダを破り新王者となりました。
まさに藤波さんの出世試合でしたが、この試合が放送され3月に王者として華々しく凱旋帰国すると予想以上の大反響が起こり、日本中でドラゴンブームが爆発しました…。
(次回に続く)
<写真出典先>
(※1〜4)『Gスピリッツ』19号(辰爾出版)





