FILE No. 1008 「グレート・テキサン(1)」~ドリー・ファンク・ジュニア追悼記念~

「グレート・テキサン(1)」
~ドリー・ファンク・ジュニア追悼記念~
8月4日(アメリカ現地時間)、“グレート・テキサン”(偉大なるテキサス人)こと、ドリー・ファンク・ジュニアがお亡くなりになりました(85歳没)。
3年前、実弟の“テキサス・ブロンコ”テリー・ファンクが亡くなった時(File No.856~857 参照)もそうでしたが、あまりの衝撃に声を失いました…(涙)。
父親でやはりプロレスラーだったドリー・ファンク・シニアの英才教育を子供の頃から受けたドリーのプロレスデビューは1963年でした。
キャリア7年目に入る69年には“世界最高峰”と言われたNWA世界ヘビー級王者となる、父親も出来なかった快挙をやってのけたドリーは同年12月、父と共に世界王者として日本プロレスに初来日しました。
流智美先生の追悼コラムによると、これまで来日経験のある歴代世界王者たち(ルー・テーズや前王者ジン・キニスキーら)と比較するとまだ28歳のドリーはいかにもお坊ちゃま的でひ弱な印象、来日前のマスコミやファンの目は半信半疑で冷ややかだったそうです。
12月2日の大阪ではアントニオ猪木、そして3日の東京ではジャイアント馬場がNWA世界王座に連続挑戦しましたが、この大阪のドリーVS猪木は60分フルタイムを戦い抜き両者ノーフォールのドローとなり、猪木さん自身が後年のインタビューで「自分のベストバウトは大阪でのドリー戦」と度々語る程の伝説の名勝負となりました。
この時代の日本プロレスは日本テレビ(金曜8時「日本プロレス中継」)とテレビ朝日(水曜日9時~「ワールドプロレスリング」)の二局がゴールデンタイムでテレビ放送の超バブル期でしたが、猪木が番組の主役だったテレビ朝日は試合から29日も過ぎた31日の大晦日にこの試合をオンエアしました。この日がたまたま水曜日だった事もありますが、平成に展開された「紅白歌合戦」VS格闘技番組の原点がまさにこれでした。
当時全盛期の紅白の裏とあってこの日のプロレスの視聴率は4・8%だったとの事、全盛期の紅白の裏で大善戦とも言えるし、通常が20%だった事を思えば物足りないとも感じますが、何しろビデオ(家庭用VTR)も無い時代、お茶の間の多くの視聴者がこの“究極の名勝負”を観られなかった(紅白の裏でプロレスを観ていたのは余程熱心なファンのみだった)のが残念です。翌年の早い時期に絶対再放送すべきでしたよ。
猪木の挑戦を退けたドリーは翌日には大エースの馬場と防衛戦、ここでも1対1から60分フルタイムをやってのけました。
全盛期の馬場&猪木を相手に2日間で120分…この驚異のスタミナと体力にファンやマスコミの評価は一変(現金なものだ 笑)した事は言うまでもありません。
それにしても、もし大阪で猪木が勝って新王者になっていたら、翌日の東京は猪木VS馬場の世界戦になっていたのか!?(笑)。
翌1970年7月にドリーは再来日、この時は父シニアは帯同せず、用心棒役として弟のテリー・ファンクが初来日しました。
テリーが生涯忘れられないと言う日本での初戦、アントニオ猪木、吉村道明 VS ファンク兄弟(この頃はまだファンクスとは呼称されず)の一戦は2-1でファンク兄弟が勝利、国際電話で結果報告をしたテリーに「そんな事でいちいち電話してくるな!」と一喝したシニアが実は涙を流して喜んでいたと言うエピソードが泣かせます(涙)。
このシリーズでは名勝負再びとばかり、8月2日の福岡でドリーと猪木のNWA世界戦が組まれ、今回は1-1からまたも60分フルタイムでファンを魅了しました。
2本目に猪木は見事なジャーマン・スープレックス・ホールドを決めましたが、結果的にこれが猪木が生涯でドリーから奪った唯一の3カウントとなります。
馬場とドリーの試合はその三日前(7月30日、大阪)馬場の保持するインターナショナルヘビー級にドリーが挑戦する形で行われましたが、馬場さんは後年この試合を「人生で最も苦しかった」と取材や著書の中で語っています。後に私も経験しましたが冷房の無い真夏の旧・大阪府立体育館はまさに蒸し風呂状態、テレビライトに照らされたリング上は45度近くになっており、流石の馬場とドリーもギブアップ寸前、1-1からフルタイム戦い抜く事は出来ず52分35秒で両者リングアウトとなりました。
NWA世界ヘビー級王者として4年3か月の長期政権を築いたドリーの王者としての最後の来日は71年の11月で、この時もテリーと一緒でした。
二人は12月7日の札幌でジャイアント馬場&アントニオ猪木組の持つインターナショナルタッグ選手権に挑戦し2-1で勝利して新王者となり、無敵のBI砲が完敗の大波乱の結果となりました。
翌8日の大阪では通算三度目、因縁の大阪でまたもドリーと猪木のNWA世界戦(今回は猪木の保持するUNヘビーも賭けたダブルタイトル戦)が組まれていましたが猪木は“尿管結石”により緊急入院、代打として坂口征二が急遽挑戦者に抜擢されました。不可解な猪木の欠場、実はシリーズ中、猪木と馬場を中心にほぼ全選手が同意して日本プロレスに対するクーデター計画が進行していたものの事が未然に発覚、馬場と猪木は袂を分かち、賛同していた選手たちも一転して反・猪木派に、猪木は完全に孤立無援、身の危険すら感じる状態でとても試合どころでは無かったのです。
日プロはシリーズ終了後に“会社乗っ取りを企てた”として猪木の追放を発表、結果的に札幌でのファンク兄弟戦は猪木の日プロラストマッチとなり、ドリーと猪木の三度目の決着戦は永遠に封印されました…。
(次回に続く)
<写真出典先>
(※1〜4)『Gスピリッツ』Vol.33 【一部モバイル】(辰巳出版)





