FILE No. 912 「虎ハンター(1)」

「虎ハンター(1)」

(前回からの続き)

“虎ハンター”小林邦昭さんが…(涙)

9月8日にスリランカから帰国(File No.911 参照)して早々、ショッキングなニュースが飛び込んで来ました。
9日、初代タイガーマスク(佐山サトル)の宿命のライバルとして一世を風靡し“虎ハンター”と呼ばれた小林邦昭さんがお亡くなりになったのです!!それも68歳とあまりにも早い旅立ちに言葉を失いました(涙)。

プロレスブームが大爆発した82~83年、その最大の立役者の一人だった初代タイガーマスク、そのタイガーを倒すべくアニメさながらに次々と強敵が現れましたが、わけても三大好敵手と呼ばれたのが(そのものずばり「タイガーマスクと3人の好敵手」なる特集号まで出版!) 
“爆弾小僧”ダイナマイト・キッド(File No.609 参照)
“暗闇の虎”ブラック・タイガー(File No.697698 参照)
そして唯一の日本人である小林さんでした。

「タイガーマスクと3人の好敵手」

メキシコからアメリカへと渡りロサンゼルスではキッド・コビーのリングネームでアメリカス・ヘビー級王座を獲得した小林さんは82年10月の「闘魂シリーズ」に凱旋帰国しました。
シリーズ開幕前から26日の大阪大会でタイガーの保持するWWFジュニアヘビー級に挑戦する同門のタイトルマッチが発表されていましたが、タイトル戦本番4日前、広島からのテレビ生中継で異変が起こりました。この日タイガーは英国のレス・ソントンとノンタイトルのシングル戦でしたが、入場していつものようにトップロープに飛び乗りポーズを決めた瞬間、エプロンに駆け上がりタイガーのマントを引っ張りリングに叩き落とした男がいたのです。
(だ、誰だこいつは!?)とテレビの前で仰天しましたが、それが私が小林邦昭を初めて観た瞬間でした。
勿論大阪大会は観戦(因みに生涯2度目の新日本プロレス)、挑戦者・小林の入場で会場に流れたのは何処かで聴き覚えのあるメロディ、何故かビル・ロビンソンのテーマ「ブルー・アイド・ソウル」が使われていました(笑)。
小林さんのテーマと言えば引退までずっと(全日本時代を除く)「THE ROOM PART1」でしたが、そちらが定着したのは翌83年からで、実は凱旋時は「ブルー・アイド・ソウル」だったのです。私には聴きとれませんでしたが、プロレステーマ曲研究家のコブラ氏によればここにブルース・リーの怪鳥音がミックスされていたそうで、これは当初、小林さんが日本でもアメリカと同じキッド・コビーのリングネームを使う予定で(この日のタイトル戦ポスターにもキッド・コビーと記載あり)そのイメージで選曲・編集されたものと推測されます。
試合は小林が場外での鉄柱攻撃からタイガーをコーナーに逆さ吊りにしてマスクを引き裂く大暴走、破られたマスクの隙間からタイガーが流血しているのがわかりました。
ダメージで試合後もぐったりのタイガー、結果こそ小林の反則負けでしたが、デビュー以来シングルで無敗伝説(唯一の黒星はダイナマイト・キッド戦での反則負けのみ)を築いて来たタイガーが事実上の完敗で、私の近くに座っていた子供が「タイガーの負けや!」と叫んだのを覚えています。
不本意な王座防衛に怒り心頭のタイガーは翌週、シリーズ最終戦11月4日の蔵前で再戦を要求、当時保持していたWWFとNWA世界ジュニアの2本のベルトを賭けてのダブルタイトル戦が急遽決定しました。
この日は大阪のお返しとばかり、入場して来たタイガーがトップロープから飛び降りるやいきなりドロップキックから人間ロケットの奇襲攻撃をかけ試合は前回以上にヒートアップ、解説の山本小鉄が「タイガーの試合の中でも三本の指に入るベストマッチ」と絶賛する程の名勝負(私も二人の試合ではこれが一番好き)となり、最後はまたもや小林がマスクを引き裂き反則裁定となりました。

衝撃のマスク剥ぎ!このインパクトで一夜にして有名人に
日本中を沸かせた黄金カード

小林さんが後年インタビューで何度も語っていますが。タイガーとの試合がテレビでオンエアされた翌日渋谷に買い物に出かけると、道行く人たちが自分を見ているので?となり、大勢に囲まれて大変だったそうです。金曜夜8時のゴールデンタイムで20%以上を稼ぐ人気番組の効果は絶大で、小林さんは一夜にして有名人の仲間入り、しかし何しろタイガーのマスクを破る大ヒールなので事務所や道場に来たファンレターの中にはカミソリ入りの物もあったとか(苦笑)。
大阪と蔵前で小林さんが破ったマスクは現存しており、「なんでも鑑定団」その他で紹介されましたが、現在の価格がなんと、約400万円ですよ!!
大阪の試合後、ダメ元で控室前に突入して新間さんにでも泣きついて譲って貰えば良かったです(笑)。
古舘伊知郎さんの命名で小林さんは“虎ハンター”と呼ばれるようになりましたが、実は凱旋したばかりの頃は一部マスコミが“飛鳥野郎”と書いていました(誰も覚えていないでしょうが)。正直こちらが定着しなくて良かったです(苦笑)。

タイガーマスクVS小林邦昭は82~83年に計7戦行われ、同時進行で繰り広げられた名勝負数え唄”藤波辰巳VS長州力と並ぶ黄金カードとして、東京や大阪などの大会場をフルハウスにしてテレビでも高視聴率をマークしました。
戦績はタイガーの7連勝(フォール勝ち2回、リングアウト勝ち1回、反則勝ち4回)、一度も勝てなかったものの虎ハンターの執念は凄まじく、まだまだ戦いは続くと思われた矢先、8月にタイガーが電撃引退、ジュニア版の名勝負数え唄は唐突にピリオドが打たれました。
小林が最初にタイガーに牙を剥いた時、同時進行で長州革命もスタート、最初の蔵前では長州と小林の二人だけが同じ控室で、その後長州革命に賛同しメンバーが増える中、小林さんも一員となり彼らは維新軍団と呼ばれました。
84年9月、維新軍は新日本プロレスを電撃離脱、ジャパンプロレスとして業務提携と言う形で全日本プロレスのリングに上がる事となり、これにより小林さんの戦場も全日本に変わります。後年明かしたところによると小林さんが全日本に移る事を決めた理由の一つが、初代タイガーマスクの引退で目標を失っていた事、全日本で2代目のタイガーマスク(三沢光晴)がデビューしていた事でした。やはり虎ハンターは生涯、虎ハンターだったのです…。

(次回へ続く)