FILE No. 856 「テキサス・ブロンコ(1)」
「テキサス・ブロンコ(1)」
今回は8月最後の週のネタを書くつもりでしたが、この週とんでもないニュースが飛び込んで来ました。“テキサス・ブロンコ”(テキサスの荒馬)の異名でアメリカだけでなく日本でも絶大な人気を誇ったテリー・ファンクが天に召されたのです(涙)!!
ミル・マスカラスと夢の競演を果たしたのが2014年12月11日の後楽園大会(File No.406 参照)、翌2015年の5月には引退ロード中の天龍源一郎とのドリームタッグが我が大阪で実現するはずが肺炎で来日中止(File No.428 参照)、仕切り直しで11月の天龍引退試合では試合はしなかったもののセレモニーに参加、そして2016年8月25日には新宿FACEでNOSAWA論外とシングルマッチが組まれていましたが、腹壁ヘルニアの手術を受ける事でまたも来日中止、以後、“第二の故郷”日本の土を踏む事は出来ず、結果的にマスカラスとのタッグが日本でのラストマッチ、天龍引退試合が最後の来日となりました。
近年は認知症を患い施設に入っていると言う話は聞いていましたが、奇しくも猪木さんと同じ79歳で旅立った事にショックでした。
訃報は一般紙の社会面に写真入りで報道され、滅多にレジェンドを表紙にしない?週刊プロレスも堂々と表紙で報道するだけでなく追悼の増刊号まで出版されましたが、これも外国人選手としては極めて異例の事で、改めてテリー・ファンクこそが日本で最も愛された外国人プロレスラーである事を実感しました。
それらをぼんやりと眺めながら一か月近くが過ぎ(これを書いているのは9月末)どうにも無気力状態だった私もようやく気持ちの整理がついたので重い腰を上げてブログを書き始めましたが、テリーについては前述の2016年の来日中止時にもたっぷり書いていますので(File No.490~493 参照)そちらも併せてお読み頂けると幸いです。
デビュー5年目、26歳のテリーが日本プロレスに初来日したのは1970年(昭和45年)7月でした。
まだ5歳(!)の私は当然プロレス中継など観ているはずもなく後年知った話ですが、NWA世界ヘビー級チャンピオンとして長期政権を築いていた兄のドリー・ファンク・Jr(前年に続き2度目の来日)の用心棒的役割を仰せつかっていたものの、まだまだキャリア不足で粗削りの印象は否めなかったようです。
しかし翌71年(昭和46年)11月の再来日ではみちがえたように成長のあとを見せ、12月7日の札幌では兄とのコンビ、ザ・ファンクスでジャイアント馬場&アントニオ猪木のBI砲から完全勝利、インターナショナルタッグ王者となる大仕事をやってのけました。
これが記念すべき日本での初戴冠でしたが、前年8月にも同じファンクスで挑戦しその時はテリーが足を
引っ張る形で完敗を喫しているだけに感無量だった事でしょう。
この時の日本プロレスは水面下でクーデター騒動に揺れており、BI砲は連係もばらばら、猪木はこの試合を最後に日プロを追放されますが(翌年、新日本プロレスを旗揚げ)、結局ドリー、テリーともこの日が最後の猪木戦となりました。
翌年、馬場も独立して全日本プロレスを旗揚げするとファンク一家は全面協力、ファンクスは長きに渡って全日本の常連となり、ブッカー(外人選手招聘窓口)としても馬場をヘルプするようになります。
そしてテリーは本国アメリカで兄ドリーが手放したNWA世界王座に挑戦、当時の王者ジャック・ブリスコを破って第51代王者となり、ドリーの4年3ヶ月には及ばなかったものの1年2ヶ月の長期政権を築き、兄弟揃っての世界王者(それも短命では無い)と言う史上初の快挙を達成しました。
日本では一度だけ防衛戦の機会があり、若き日のジャンボ鶴田の挑戦を受け(76年6月11日蔵前)テリーの日本での5本の指に入る名勝負となりました。尚、力士時代の天龍がこの試合を観戦してプロレス転向を決意したのは有名なエピソードです。
しかし本当にテリーが日本で人気と地位を不動のものとしたのは世界王座を失ってからでした。77年12月に開催された世界オープンタッグ選手権に参加したファンクスはアブドーラ・ザ・ブッチャー&ザ・シークの地上最狂悪コンビとの抗争が勃発、蔵前国技館での最終戦(12月15日)での両軍の公式戦ではブッチャーが前代未聞のフォークを凶器として使用し館内を恐怖のるつぼに叩き込みました。腕を使えなくなり場外で戦闘不能になったテリーがリング内で孤立したドリーを助ける為不屈の精神でカムバックする名シーン、ファンクス涙の逆転優勝に蔵前に集まった大観衆は酔いしれ、この感動の名勝負が土曜日夜8時に全国のお茶の間に流れた(録画中継)事からテリー人気が大爆発しました。
今思えばこの試合が野球シーズンでない12月だった事も幸いでした。以前にも触れたように日本テレビの「全日本プロレス中継」は巨人戦があると夜8時の指定席を奪われ、11時45分に追いやられていたからです。家庭用ビデオデッキが普及していない時代、そうなると観る人の数は限られ、あそこまで加速的な人気爆発とはならなかったでしょう。
運も味方につけたテリーとブッチャー、そしてファンクスVSブッチャー、シークの遺恨対決は全日プロのドル箱カードとなり、テリーは御大ジャイアント馬場やジャンボ鶴田をも上回る全日プロの事実上のエース的存在となりました。
80年10月21日、「ジャイアントシリーズ」後半戦に参加する為来日したテリーは記者会見で「3年後の6月30日、自分の39歳の誕生日に引退する」と爆弾予告をやってのけました。フットボールをやっていた学生時代の古傷である右膝の悪化が理由でしたが、人気絶頂での引退宣言にファンもマスコミも半信半疑、テリーが後年自伝で明かしたところによると勿論引退は本気でしたが、新日本プロレスとの興行戦争で大きく水を開けられていた全日本プロレスの為に自分自身が捨て石となる覚悟があったそうです。
実際引退の年である83年、テリー引退フィーバーにより全日本は空前のブームに沸く新日本に対して大善戦しました。そしてテリーの口からは「引退試合はアントニオ猪木と戦いたい!」とまたもや爆弾発言が飛び出しました…。
(次回に続く)