FILE No. 958 「リアル・アメリカン・ヒーロー~超人伝説(1)」

「リアル・アメリカン・ヒーロー~超人伝説 (1)」
10月に入り少しは涼しくなっているはず(このブログを書いているのはまだまだ異常な酷暑が続く8月の中旬!)、これからじっくり夏を振り返りますが、人一倍暑がりの私には正直あまり思い出したくもない日々です。
今年の夏の最大の衝撃は何と言っても、7月24日(アメリカ現地時間)、世界のスーパースター“超人”ハルク・ホーガンがお亡くなりになった事でした(享年71歳)。
ホーガンが新日本プロレスに初来日したのは1980年5月、来日第一戦から“怒涛の怪力”(File No.722 参照)ストロング小林をパワーで圧殺、その後も中堅選手相手に連戦連勝を続けましたが、日本のファンは大型キン肉マンタイプのレスラーには「力だけでレスリングが出来ない」的な固定観念を持っており(実際そういう選手が多かった)、アントニオ猪木ですら後年「最初の頃はでくの坊で酷かった。」と振り返っていました。
しかし、ホーガンがただのでくの坊で終わらなかったのは本人の努力もさることながら、運命的な出会いとチャンスに恵まれた事が大きかったと言えるでしょう。
その第一の転機となったのが同年暮れの「MSGタッグリーグ戦」でスタン・ハンセンとタッグを結成した事で、当時のハンセンはナンバーワン外国人エースの座を不動のものとしており飛ぶ鳥を落とす勢い、ホーガンはタッグを組むだけでなく私生活でも行動を共にする事で多大な影響を受けていきました。
たまたま京王プラザホテルのショップで「一番」と書かれたTシャツを見つけたのをきっかけにタイツに「一番」の刺繍を入れ、ハンセンのテキサスロングホーンの「ウィーッ!」の雄叫び宜しく「イチバーン!」と叫ぶようになったのもこの頃でした。
81年、新日本プロレスが仕掛ける形で全日本プロレスとの間で仁義なき外国人選手の引き抜き合戦が勃発(File No.684, 685 参照)、アブドーラ・ザ・ブッチャーやディック・マードックが全日本から新日本に、逆にタイガー・ジェット・シン、スタン・ハンセンが全日本へと移籍しましたが、実はホーガンにも引き抜きの声がかかっていました。全日本のブッカーであったテリー・ファンクから好条件を提示されていたものの、ホーガンは新日本にその条件を報告してちゃっかりギャラアップに成功して残留…全日本でのホーガンも一度は観て見たかったものですが、この時の選択が結果的に大正解だった事は後の歴史が証明した通りです。
また、この時期ホーガンにはシルベスター・スタローン主演の映画「ロッキー3」(82年公開)出演の話が舞い込みました。異種格闘技戦(エキジビションマッチ)でロッキーと戦うプロレスラー(サンダー・リップス)の役柄で、聞くところによるとギャラはそれ程高額では無く、試合を休んでまでの出演は決して割の良い仕事とは言えませんでしたが、これが大ブレイクに繋がるのですからその先見の明たるや驚くばかり、やはりホーガンはスーパースターになるべくしてなった強運の持ち主です。
エース外国人のハンセンが引き抜かれた事により窮地に陥ったと思われた新日本ですが、誰かがいなくなればその抜けた穴を埋めるべく誰かが出て来るのが真の強い組織、82年からハンセンに代わってホーガンが台頭し、これまでの「ハンセンの弟分」的なイメージを完全に脱却しました。
折しもこの年、アントニオ猪木が膝の負傷により1シリーズをまるまる欠場、新日本は手薄になった戦力を補う為急遽ホーガンを日本人側に編入、藤波辰巳や坂口征二らとタッグを組ませました。猪木復帰後もホーガンは日本陣営に留まり猪木・ホーガンのスーパーコンビが誕生、このベビーフェース転向のベストタイミングで「ロッキー3」が公開された事も追い風となり、ホーガン人気は爆発しました。
因みに私が生でホーガンの試合を観たのもこの頃で(新日本プロレス初観戦となる9月21日・大阪)、ホーガンは特別試合で“鬼軍曹”サージャント・スローターと対戦、この年から使い始めた必殺技、アックスボンバーで完勝しました。因みにこの二人は91年の「レッスルマニア」で“プロレス版湾岸戦争”として戦う事になりますが、その9年前にレッスルマニアのメインのカードがひっそりと?大阪で実現していたのです(笑)。
この時期にホーガンと日本で一緒になった“暗闇の虎”ブラック・タイガー
(File No.697, 698参照)は後年のインタビューで「イノキからホーガンのレスリングの指導を頼まれた」と秘話を明かしていましたが、猪木は早くからホーガンのたぐいまれなる才能を見抜いていました。
少し前の週刊ポストのホーガン追悼特集で「直接の弟子では無いものの、実はホーガンこそ最も猪木イズムを継承して大成功した選手」と評していましたが、ホーガンは猪木と組みながらプロとしての姿勢や心構え、プライドを伝承されていきます。
猪木&ホーガン組は82年の「MSGタッグリーグ戦」に出場し堂々の優勝、翌83年に控えた一大イベント「IWGP」で、今度は戦う事を誓いあいました。
この時期ホーガンはインタビューでこんなコメントを残しています。
「日本のプロレスは本当に羨ましい部分があるよ。と言うのはアメリカではプロレスラーの地位がとても低いんだ。しかし日本のファンはレスラーをリスペクトしてくれる。
イノキなんて日本一のスターじゃないのか。だから我々アメリカのレスラーはギャラの事は勿論だが、日本で仕事が出来る事自体が誇りなんだよ。」
猪木に憧れ、自分もアントニオ猪木のようにプロレスを超越した存在になると誓ったホーガン、彼にとって生涯忘れられぬ出世試合となる、運命の一戦の日がやって来ました…。
(次回に続く)